対比

『消えた後継者』という作品の物語は非常に完成度が高い、そう私は考えています。

中でも、この作品で見られる犯人側と主人公側の人間の『対比』の構図には秀でたものを覚えましたので、今日はそれについて......。


この物語の中では世の中の理不尽さが問われているように思います。

主人公側も犯人側も、法で裁かれなかった犯罪の被害者という面を持っています。

また主人公の父である「とおやま たかお」氏のように、本来なら罰せられるべきではなかったにも関わらず、罰せられた人物もいます。
 

そうした事情の中で、すべてを復讐に傾ける犯人と、復讐の道を敢えて選ばなかった主人公側の人間との対比が、この作品では浮き彫りにされているように思います。

作中で綾城家の血を根絶やしにしようという尋常でない復讐心を見せてる神田弁護士は、ただ復讐というだけでなく、綾城商事の全権を得ようという姿勢もあって、哀れでも醜く描かれています。
 

そんな彼に対称的なのは、主人公の母、ユリです。

綾城家の力を借りれば、彼女には夫を救うことも復讐することも可能だったと思われます。

しかし、ユリさんはその道を選びませんでした。

それはきっと、夫を貶めた相手と同じ手段を取る事ができなかったからではないかと考えます。

また、復讐という行為の無益さを感じていたのかもしれません。

彼女の夫が、他ならぬ復讐心のために、本来正当防衛で無罪になるはずのところを罰せられることになったことは、良くわかっていたことでしょうから。
 

そして、その母と正義漢ゆえに殺人者となってしまった父・「たかお」を誇りとする主人公は悲しくも美しく描かれているのではないでしょうか。

作中で彼のその後は書かれていませんが、主人公がその後に両親をしに追いやった人々に復讐したという事態は、想像するのも難しいことのように思います。
 

もちろん、神田と主人公では事情が異なります。

両親の記憶がまったくない主人公に対し、神田弁護士はずっと家族と共に育ったはずですから、憎しみの気持ちに多少の差は生まれたことでしょう。
 

家族を愛したがゆえに、復讐しか考えられなかった神田と、家族を誇りとするからこそ復讐を考えない主人公。
 

この対比から、制作者の姿勢も覗えるように思うのは気のせいでしょうか?
 
 
 
 
 
  Apr.2000