Painful 100

01. 涙
 この十五年、彼には泣いたという記憶がなかった。
 友人の死にも、教え子の死にも、遠い日に亡くした妻を思い出しても、彼が涙を流すことはなかった。
 なぜならば、彼は、自分にそんな資格がないことを知っている。
 亡くなった人々は涙をもって悼まれるに相応しい人格だった。
 だが、親しい人の死を嘆き、涙を流すような資格が、彼にはない。
 その死を友人として、師として、夫として悲しむ資格が、彼にはない。

 彼はこの世でただ一人、それを理解していた。
 浦部忠志とは、そういう人間である。
02. もしも許されるなら
 赦されると思ったことはなかった。
 彼は自らのしたなにひとつとして赦されるとは思っていなかった。そこには「もしも」などという言葉の入り込む余地はない。彼のこの十五年弱、正しいことはなにひとつ無かったのだ。たとい、立派な教育者として尊敬されているにしても、そのひとつひとつが一見正しく見えたとしても、所詮、それは本質とは呼べないものである。すべてに先立ち、自らの罪を明らかにし、そして自らばかりではなくあの青年の罪を明らかにし、償うことができなければ、それ以外の何をしたとて、浦部は正しくはないのだった。そして、彼には罪を明らかにする気がない。それだけは、する気がない。
 彼は正しさを知っている。善悪の分別がつき、何をすべきかもわかっている。
 にもかかわらず、そのすべてに背いた。それが、彼の、十五年。
 故にこの十五年、彼のしたすべては、悪に基づく悪だった。そこまで理解した上でなお、彼が自らを正すことは無かった。だから赦されると思ったことはない。ただの一度もない。
 浦部は思う。
 もしも許されるのなら、自分が救われることのないように。赦されるべきでないものが、赦されることなどないように。
 自分は間違っているけれど、どうか世界は正しくあるように。
 もしも祈ることが許されるならと、彼はひどく感傷的な気持ちでそう思った。
03. 春の雪
 三月にも入ったというのに、その日はわずかに雪が降った。すでに花開いていた庭の梅の木にかたまりの大きな雪が降りかかる。細い枝の上にあっても、それは積もると言うほどではなかった。時季はずれの雪模様にもかかわらず、まだらの雲の合間からは時折日が差し込んだ。春分もそう遠くはない午後4時は意外と明るく、神の階と呼ばれる光の筋がよく見えた。その光の間を大きな雪がわずかに降っている。天気雨ならぬ天気雪だ。
「ふしぎな眺めですね」
 そう言った彼の妻は、飽きることのない様子でガラス戸越しにその眺めを見ていた。外に出てみたいとは口にしなかった。生まれ持って心臓の弱いその女性はこれまでも丈夫とは言い難かったが、身重の体になってからは適度な運動を推奨されるどころか、家事と散歩以上の運動は医者から止められていた。むろん、体を冷やすようなこともないように、ことさらに気遣って日々を過ごしていた。
 ずっと名残の雪を眺めているのだから、彼女とて本当は、わずかでも庭に出てみたいのかも知れない。だが、暖かい居間で、彼の妻はふくらんだ腹部を撫でながら、目を細めて庭を見ているだけだった。
 元々が華奢な体つきであったためか、腹部のふくらみはよく目立つ。それは胎内の子どもの成長が順調であることを意味しているだろう。リスクの大きな出産になる。健康に生まれてきてくれればいいと思う。妻は我が子にそれを望み、彼は母子ともに、と祈った。もう数ヶ月。出産予定日は春の内だ。
「本当にきれい」
 目を細めて語る妻に、彼は短く相づちを打った。
 雪はそろそろみぞれに変わりつつある。先ほどより日差しが増えた。雨とも雪ともつかないものが、黄金色の光を映して降り注ぐ。
「雪もこれが最後ですね……」
「そうだね」
 そのとき、何気なくそう返した言葉は、やがて、悲しい響きとなって彼の中でよみがえることになる。
 その日の雪は紛れもなく、その女性にとって最後の雪となった。
04. 雨
 彼が腕に抱えた体はすでに固くなりつつあった。重心の定まらない体は、その質量以上に重く感じられるものだ。まして、それが死体であると言うならなおさらだろう。
 眼前には川。背後には道。秋雨が降り込める午後十一時。
 町の外れ、町の外と内とをつなぐ橋はその時間でも完全に車が途切れることはない。彼は腕に抱いた少女を橋の上から投げ捨てることを諦めなくてはならなかった。
 だから男は少し道を外れ、橋から遠のいた土手沿いで車を止めた。そこに道行く者は皆無に等しい。通る車はなく、土手から下に降りた彼の姿を見とがめる者もいなかった。彼は車を停めた場所から敢えて河川敷をしばらく歩いて距離を取った。降りしきる雨と広げた黒い傘は、闇の中に彼の姿を隠すわずかばかりの手伝いをしてくれる。
 しかしながら、逆を返せば、こんな時分に増水した河岸に立つ彼はおそらくそれだけで目立つだろう。人に見られれば、遺体を抱いた今の彼の姿は言い訳の余地のない状況でもあった。
 遺体は重く、歩く間に息が切れた。やがて、流れる濁流のすぐ淵に立って彼は足を止めた。彼はしばらくその場で動かず、足下の川の流れを見た。少女の遺体に視線は向けなかった。紳士用の大きな傘でもすべての雨を遮ることは出来ず、少女の膝から下を濡らしている。
 川の流れは夜目にもそうとわかるほど速い。遠くからの街の明かりに照らされた水は濁って汚かった。
 川の流れを見つめ、そのまま10秒。
 20秒。
 30……
 40秒を数えるところで、彼は少女の顔を見た。命を失った少女は、白い制服の黒い襟と相まって、白かった。
 男は一度目をつぶり、次に開いた。息を止め、渾身の力を込めて少女の遺体を川へ投げ込んだ。
 少女、と言っても、さすがにその体は40kgを下るまい。遺体はさほどの距離を飛んだわけではなかった。浅瀬を半ば転がるようにして水の中に呑まれていく。白い制服の布地と、白い顔が黒い水面に浮かんでは沈んだ。最後にその頭部が水面に覗いた時、顔は彼の方を向いていた。
 彼はそのまま河岸に残った。しばらくして、少女を放(ほう)った際に肩から滑り落ちた黒い傘を拾い上げた。傘の骨が一本折れていた。彼は傘を閉じ、雨の中、川を見た。網少女の姿は見えなかった。
 その背後から河岸に灯りが閃く。男はゆっくりと土手を振り返った。雨合羽を着て懐中電灯を持った人影が、土手の上、弱々しい街灯の光の下にあった。人影の足下で中型の犬が落ちつかなげに路面の臭いをかいでいる。
 彼は土手に停めた車へ向けて静かに歩き始めた。
05. 卒業
「卒業しました」
 電話越しに少年の声がした。
「おめでとう」
 答えた声は、浦部が意識したよりさらに静かだった。
 高校の卒業式というものは、いささか感慨の大きなものだと思っていた。大きくなった、立派になった、と感じるものだろうと思っていた。何事もなければ、きっとそうなったに違いないとも思う。しかし、彼らにとっては、そうではなかった。
 少年の、中学の卒業から、高校の卒業までに起きた出来事を思うと、言葉を失う。わずか三年の間に、少年の人生は取り返しの付かないところまで行ってしまった。それは少年が高校を卒業したからと言って、終わるようなものではない。
「大学の合格発表は、いつだったかな」
「今日です。さっき結果が届いて……合格しました」
「そうか。良かったね、おめでとう」
 今度は前に比べれば今少し、感情を伴った声で祝えた。その言葉に対して少年は言葉少なく、ただただ恐縮しきった様子だった。大学進学を進めたのは浦部だった。その費用も、少なからぬ率を浦部が負担する。なにも気にしなくていいと、浦部は言った。事実、少年はなにも気にする必要はなかったのだ。しかしそのことを少年は知らない。今となっては、浦部も知られることを望んでいない。
「受験勉強を終えたばかりなのに嫌なことを言うと思うかも知れないが、大学の勉強は、高校までとはまた違うものだからね。大変かも知れないが、がんばりなさい」
「はい」
「環境も新しくなる。新しい友人に恵まれることを、祈っていますよ」
「……はい」
 深い声で、少年は言った。それで、浦部は自分の言いたいことが伝わったと知る。
 新しい環境で、新しい人間関係の中で、彼にとっては悪夢でしかなかった高校という場を離れて、少年は新しい生活を始める。少しでも、忘れればいい。あの記憶が薄まればいい。
 何かお祝いを贈ろうと、そう言おうとして浦部はやめた。少年がさらに恐縮することは目に見えていた。祝いの品を贈るだけでいいだろうと、そう考えた。
up data
2009/06/30
お題配布元
切な系100のお題 http://www.w-mania.com/s_top.html

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