祝いの言葉
 

 結婚式の直前には最終リハーサルをするのが常である。
 新郎新婦、新婦のエスコートをする親族、それに場合によって立会人は、ここで式次第の最後の確認をするのが常だ。本番も直前に迫っていることだし、このときアルバムにする写真撮影をする場合も多い。全員が本番と同じ正装で行うリハーサルはこの一回きりだ。よって、参加する人々はおおむね緊張感に包まれる。
 しかし、この日の最終リハーサルはそれにつけてもこわばった雰囲気だ、と本日の立会人である丑美津警察署勤務の丸山警視は思っていた。
 職業柄どうしてもそうした気配にはめざとくなってしまう。
 新郎、新婦、それに新婦の祖父。全員が心のすみに心配事があるという顔をしていた。その辺りの複雑な事情の一部を丸山も少しだけ聞いているから、なおさら良くわかる。
 とはいえ、丸山にはどうしようもないことだった。せいぜい気づかない振りをして明るく祝ってやることしかできない。
 ならばできることを精一杯やるべきであると彼は──彼と、彼の妻は決めていた。
 リハーサル自体はつつがなく済んだ。
「おめでとう、直哉くん」
 丸山はまず新郎に祝いの言葉を掛けた。
 新郎は軽く微笑んで会釈する。
 丸山が新郎と知り合ったのは、もう十年も前のことである。当時の丸山はまだ警部として現場で働いていたし、新郎も当時はまだ少年だった。その少年は逢う度に背を伸ばし、成長し、今は立派な青年になって所帯を持とうとしている。
 新郎にはこれまでいくつかの、あるいはいくつもの事件で世話になってきた。仕事の性質上、複雑な人間関係もずいぶん見てきた彼が、こうして幸せを得るのは、とても喜ばしいことだった。
 思えば、新婦と知り合ったのも新郎と知り合ったものと同じ事件だった。
 丸山の横では彼の妻が新婦とその祖父に語りかけていた。話の内容はといえば新婦の美しさを手放しで褒め称えているという一点に、ほぼ集約されるだろう。世辞とは言い難い熱心さだった。
 丸山としても妻の評価に異存はない。
「こんな綺麗なお嫁さんをもらえるとは、直哉くんも果報者だね」
 だから、定番のそんな文句を丸山は心から言った。新郎は少し照れた様子で髪に手をやりながら、僕もそう思いますと、のろけで返してくる。もっとも当人にはのろけている自覚などないだろう。本当に幸せな時に発せられるノロケとはそういうものだ。
 一瞬なりとも気がかりを忘れたような新郎の様子に、よしよしと丸山はひとり心の中で満足した。

 その時、騒ぎは起こった。

 教会の外から大きな声が聞こえてくる。
 いったい何事と、最終リハーサルに参加した人々は全員、見えないことを承知で声のする方に顔を向けた。
 数人の声がする。声は少し遠すぎて内容は判然としないが、その中で誰かが「令子ちゃん!」と呼ぶのが聞こえた。
 新郎新婦が顔を見合わせる。
 新婦の祖父が駆けだした。
 それに一歩遅れる形で花嫁がドレスの裾を持ち上げた。
「あゆみちゃん、待った!」
 今まさに駆け出そうとする花嫁を新郎が止めた。新郎の手が花嫁の腕を押さえている。
「その靴で走るのは無理だよ」
 新郎の言葉につられて丸山は新婦の足下に目を向けた。ドレスの裾を持ち上げられたことで少し見えるようになった花嫁の靴は、白いサテン地の華奢なハイヒールだった。これで走れば足をくじかずにすむのが奇跡だと思われる代物だ。
 それでも、花嫁はさかんに外を気にしている。
 その様子を見かねたのか、丸山の妻が声を掛けた。
「お祖父様たちに任せてはどう? いま外に出たら、ドレスやベールの裾を汚してしまうこともあるでしょう?」
 ハイヒールで走り出そうとする花嫁だ、そこまではとても気が回らなかったのだろう。我に返ったように口元に手を当てて戸惑うように視線を揺らす。
「でも……」
 と、新婦が呟いたところに、再び外から声が聞こえてきた。
「令子さん、待ってくれ!」
 低い声が新婦の祖父のものであることは間違いなかった。
 その声に花嫁は顔色を変えた。いても立ってもいられない、という様子で出口を見つめる。
「あゆみちゃん、わかった」
 新郎が表情を厳しくした。
「ちょっとごめん」
 短く断ったかと思うと。
 花婿は突然花嫁を横抱きに抱え上げた。
 目を丸くする花嫁に、新郎はあくまで真顔で言った。
「走るからちゃんとつかまってるんだ。それからベールを引きずらないようにもちあげてて」
「え、ええ」
 花嫁が小さく頷く。
 花嫁を抱えて新郎は走り出した。
 突然のことに一瞬唖然とした丸山もすぐに我に返る。新郎を先回りして両手のふさがっている彼のために扉を開けた。
 

 野村令子は教会前で待ちかまえていた遺伝上の親族ならびに妹の上司と、そして本日の友人代表に囲まれ押し問答を繰り返していた。
 気分としては前門の虎、後門の狼というのがまさにふさわしい。
 親族はこんこんと、新郎新婦の友人は切々と説得を続けているのだが、軽いパニックに陥ってしまった令子の耳には届かない。彼女はただただ混乱していた。
「お姉さん!」
 その時、その声はにわかに降り注いだ。混乱した令子の耳にも、はっきりと届く声だった。
 自失から浮上するように令子は顔を上げた。彼女の周囲の人々は皆、同じ方向を向いて面食らったような顔をしている。令子も彼らと同じ方向に顔を向け、目を瞠ってしまった。
 新郎に抱きかかえられた花嫁が令子を見ていた。
(式の時間を間違えたかしら?)
 かなり間違った方向性で令子は考えた。思考があさってを向いているのはまだ彼女が混乱している証拠である。
 呆然とする人々を後目に花嫁は──正確に言うと花嫁を抱えた花婿は──令子の前へと進んだ。
「お姉さん」
 花嫁が大きな瞳でじっと令子を見つめてくる。一言で言うなら懇願するような目だった。
「あゆみちゃん……」
 令子は完全に、言葉に詰まってしまった。頭の中は真っ白だ。まさか、この目を前にこれで帰りますとは言えない。しかし、逃げることばかり考えていた頭の中には他の言葉が思いつかなかった。

 新婦と新婦の姉がかなり微妙な雰囲気で黙り込んでしまった中、周囲も息を呑んで見つめる。
 そんな中、新郎新婦の上司である空木がそっと令子に囁いた。
「令子さん、とりあえず、あゆみちゃんにお祝いを言ったらどうです?」
 はっと、令子は空木を見た。
 空木の言葉はひと筋の光明のように令子の頭にしみ通った。そうだ、ひどく簡単なことである。
「あ、ああ……そうですよね」
 頷いて、あゆみちゃん、と妹である花嫁に呼びかける。
 令子は新郎新婦に向き直った。
「ご結婚、おめでとう」
 花嫁はゆっくりと、素晴らしい笑顔になった。
「お姉さん、来てくれてありがとう」
 

 そうして、式は無事に、本当に無事に始まった。
 祖父にエスコートされて、白いバージンロードを花嫁が静かに進んでいく。
 当人たちの希望で参列者は新郎新婦を良く知るごく親しい人々だけであったが、その彼らから見ても今日の花嫁は息を呑むほど美しかった。
 祭壇の前で花嫁を待つ花婿は、(ごく一部の人間に言わせれば予想外に)モーニングが似合っていた。
 何より、二人は──二人だけでなく彼らを祝う皆が、幸せそうだった。
 牧師が新郎新婦の重ねた手の上に自らの手を置き、祈りを捧げる。
 直哉とあゆみは微笑みあった。
 

『それ神の合わせ賜いし者は、人これを離すべからず』



 

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この作品は当サイトのカウンタで「20000」を踏まれた殿下様のリクエストにより、「探偵くんとあゆみちゃんの結婚式」を主たる内容として書かせていただきました。
殿下様、素敵なテーマをありがとうございました。