走馬燈
  [ 部屋( 10月11日 夜 )]
 

 すでに、周囲は闇に包まれつつあった。
 十月も中旬に入り、そろそろ昼の短さを誰もが感じ始める時季だ。
 その日は前日までの晴天が嘘のように空は重い雲に覆われていたから、よけいに夜の訪れが早かったのかもしれない。

 丑美津高校の一画にあるその部屋からは、ブラインドが上がっていればグラウンドから校門にかけてを見渡すことが出来る。
 秋の嵐が訪れようとしているのか、校舎の脇を強い風が吹き抜けて人気のないグラウンドですすり泣くような音を立てていた。
 嵐の前の風は違う。どこか、その後に訪れるものを意味する不吉さを内包している。
 この日の風も、そうした嵐の第一波にふさわしいものだったと思う。

 けれど、その部屋は外界から隔絶された静寂の中にあった。
 風の音は届いているが、その音は凪いだ海の底で聞く波の音と同じほどに遠く、室内の静寂を際立たせるばかりだ。
 この静寂は嵐の前の静けさのようによどみを湛えたものではなかった。むしろ一足早く嵐を迎え、すべてが押し流されてしまった後のような、空虚感のある静寂だった。
 その部屋に並ぶ重厚な調度品の数々には、本来そのような雰囲気をかもし出す要素はない。
 ただ、その部屋は自らの主に忠実だった。
 今、ここに一人立つ男の心境に、その部屋は染まっていた。

 彼は受話器を戻した姿勢でしばらくたたずんでいた。彼が動きを止めると、この部屋の中で世界は一瞬時を止める。
 男は自分がその電話で発した言葉に少しばかり思いをめぐらせていた。
 今、もしこの部屋を訪れる者がいたとしても、男の表情は闇にまぎれて見えなかっただろう。
 彼はただ自分が置いた受話器を見つめていただけだったが、仮にその表情が見て取れたとしても、それを言葉で容易に表現できる者はいなかったに違いない。
 ただ、もしかすると室内に漂う空気から、重い疲労感や静かな決意を感じることはあったかもしれない。
 だが、いずれにしても今はまだ、この部屋を訪れる客はなかった。
 男は電話が置かれた卓から離れると、自分のデスクへ向かった。
 長年彼が親しんできた机には、これまで置かれたためしのないものが乗せられていた。
 きわめて簡易な封しかなされていない宛名のない封書と、鈍い銀に光るナイフ。
 百歩譲って封書の方はともかくとして、その刃物はこのデスクに似合わないこと甚だしかった。
 『ナイフ』と言われれば誰もが一度は想像してしまうような古典的な作りのその刃物は、つい先日の引越しの際に男が偶然見つけたものだった。
 一体いつこんな物を購入したのか、そもそも自分が買った物なのか、それすらわからない代物だったが、彼はそれを処分せずに引越し先にまで持って来てしまった。それはこんな日が来ることを大いに予感していたからではあるが、それでも教育者のためのデスクを冒涜するような形(なり)に、彼はその時になって後悔を覚えていた。
 本来何かを傷つける目的で作られたわけではないカッターナイフや多少鋭い作りのペーパーナイフの方が、この場に置くには余程ましだったに違いなかった。
 もっとも、もしこのとき彼がそうした華奢な道具を選んでいたなら、その部屋から少しの距離にある、一枚の大鏡が割られることはなかったかもしれない。彼はこの道具を選んだことで、一連の事件の犯人逮捕に最終的な協力をすることになる。

 どちらにしても、もはや男には道具に構っていられるほどの時間は残っていなかった。
 それが、自らの命を絶つための物だとしても。
 今ごろ、彼からの電話を受けた少年はこちらに全速力で向かっているはずだった。警察に連絡が行ったとすれば、この部屋にはすぐにも誰かがやってくるだろう。
 そうである以上、彼は可及的すみやかに『二度と戻ってこられないところまで』行ってしまう必要があった。
 その行為は、彼にとって恐らく最大の賭けであり、そして最後の罪だった。
 彼は一人の殺人犯を庇い、すべての事実を闇に葬るために命を賭けようとしていた。そのことはそれだけで重罪と呼べるであろうし、加えて男は過去に自分自身が犯した罪に対する責任も何一つ果たさずに死んでいこうとしている。
 それが、どれほど許されがたいことであるか、彼は正確に理解していた。

 だから、そのとき良心の呵責は男の心を切り裂いて、首筋に当てた刃を引くことを一瞬彼に躊躇わせたかもしれない。冷たい刃の感触に純粋な死への恐怖を覚えて、彼は何度か躊躇ったかもしれない。もしかしたら、彼は地獄で報いを受けることをむしろ心から望んで、わずかも迷わなかったかもしれない。

 けれど、浦部が命を絶つその瞬間を見た者は誰もいないから、本当のことは永遠にわからないだろう。
 ただ、その部屋だけが主人の死を悼みながら、今は故人が呼び寄せた客人の訪れを待っていた。