ある日、街角にて。
 

「早く来すぎちゃったわね……」
 田沼みゆきは腕時計を見て溜息をついた。
 正月三日の駅前は普段の平日より人の往来が多かった。行き交う人ごみの多くはみゆきと同世代や、冬休み中と見受けられる十代のグループなどでこれはいつもと変わりないが、「福袋」とはっきり書かれた袋を腕にいくつも提げた奥様方は一年でもこの一日二日しか目にする機会がないだろう。
 まあ、それを除けば普段のこの辺りとそう変わりはないかとみゆきは思った。近隣ではいちばん、老若男女を問わず何となく楽しめる場所の多い街だ。正月休みで久しぶりに帰省した友人たちで集まるのか、ちょっとした集団で話に花を咲かせている連中もいる。かく言うみゆきも、もう三十分ほど経てばそうした集団の一つに混じる予定だった。
 それにしても早く来すぎた。みゆきは腕時計をまた眺める。年末年始で普段使うバス路線が休日運行になっていることを失念していたのは、失敗だった。今朝になって母親にそのことを指摘されて、慌てて早いバスに飛び乗ったから遅刻こそせずにすんだが、まだみんなが集まり始めるまででも二、三十分は掛かるだろう。全員が集まるまでとなったら、それよりももっと待ち時間は長くなるはずだった。
 みゆきは待ち合わせ場所の目印にと決めたオブジェクトのところまで行って、考えた。駅前の広場にどんとおかれたその巨大なオブジェクトは。六角錐の大理石もどきの先端だけを水平にカットしたような、近代的とも良くわからないとも言える謎の形状をしている。この場合、風よけにはもってこいではあるが、それでも寒空のもと三十分待つというのは厳しい。
 こんな事になるなら、一本遅いバスに合わせて集合時間をもう少し遅くするか、せめてどこかの店で集まることにするんだったと、みゆきはもう一度長息する。息は冷たい空気の中で白く立ち上り、横へと流れていった。午前十時半の空は青く晴れているし日も射しているが、結局は冬だ。風が冷たい。
 どうしよう、どこかの喫茶店にでも入っておいた方がいいような。でも、どこも混んでそうね。……あ、だったらお昼ご飯の店とか、予約しておいた方がいいのかしら? でも、何人集まるか実ははっきり知らないのよね。みんな早く来ないかな……。
 そんなことを考えてから、みゆきはまた腕時計を確かめる。さっきから五分も経っていない。すわ、時計が壊れたか、とみゆきは慌てたが遠目に見える駅ビルの壁面に取り付けられた大きな時計も同じ時刻を示している。一時的に不調をきたしたのはみゆきの時間感覚の方らしい。
 まるで、学生時代のつまらない授業のようだ、とみゆきは思った。面白くない授業では一分経つのがおそろしく長かった。けれどたとえ真冬でも、教室はここまで寒くない。
 人で混み合う店には入る決心がつかず、みゆきはやや途方に暮れた体で立ち尽くした。
(やっぱり、早く着きすぎたわ……)
「やっぱり、早く着き過ぎちゃったね」
 突然聞こえてきた声に、みゆきはぎょっとした。どうして、自分の胸の内のつぶやきが別人の声で隣から聞こえてくるのだろう。
「仕方ないさ、いい時間にバスがなかったんだ。遅れるよりマシだよ」
 これまた、先程のみゆきの述懐をなぞったようなセリフが聞こえてくる。けれど、今度は最初と別の声だった。先に聞こえたのは女の子の声、返事をしたのは男の子だ。
 みゆきは首を巡らせた。例のオブジェクトの陰になっていてみゆきは気づかなかったが、やはり六角錐の一面を背にして子どもが二人、すぐ脇に立っていた。今の声の主はその二人らしい。
(あら)
 二人を覗き込んだみゆきは途端に微笑ましい気分になった。子ども、と思ったのは間違いだったかも知れない。いや、みゆきの目から見れば二人は間違いなく子どもの範疇に入るのだが、その二人は中学生くらいの可愛いカップルだった。女の子は、長く伸ばした黒髪と切れ長の大きな目が人形を思わせるようなきれいなお嬢さんだ。男の子の顔はみゆきの位置からはちらりと横顔が伺える程度だが、こちらも整った雰囲気があった。このくらいの年頃の男の子にこう言うと怒られるだろうが、カッコイイというよりまだ可愛い感じがする。冬休みでもあることだし、二人はデート中なのだろう。
(時間に早いってことは、映画でも見に来たのかしらね)
 みゆきはにわかに寒さも忘れて、目を細めた。
 女の子の方が軽く首を巡らせた。
「さやかたち、さすがにまだ来てないみたいね」
「約束の時間よりだいぶ早いから無理ないさ」
(あらら……)
 いきなり予測がくつがえされてみゆきは少しがっかりした。人を待っているということは、どうやらこの可愛い二人はカップルではないらしい。けれど、すぐにみゆきは思い直す。グループデートなんてものを、自分もこのくらいの年頃にはしたなァと思い出したのだ。この二人もそうかも知れない。
 久しぶりに高校時代の友人たちと会う予定のせいか、今日の自分は昔のことを良く思い出す、とみゆきは思った。なんだかずいぶんノスタルジックだ。
「しのぶ、寒くないか?」
 男の子が聞いた。女の子はしのぶというらしい。たぶん、姓ではないだろう。
 名前で呼んでるんだ、しのぶちゃんかあとみゆきはまた微笑ましい気分になった。
 そのしのぶちゃんは、軽く小首を傾げた。厚手のコートの隙間から覗く首は人形のように細い。
「少し寒いけど……」
「じゃあ、どこかに入って待つか?」
 間髪入れずに男の子が提案する。おお少年、カノジョにきちんと気遣いするなんてポイント高いわよ、とみゆきは無責任に胸の中で男の子を褒め称えた。だが、肝心のしのぶちゃんの方はみゆきほど感銘を受けなかったようだ。
「どこも混んでそうよね。私はもうしばらく平気」
 そう言ってから、しのぶちゃんは何かに思い当たったように軽く眉をひそめた。
「でも、たっちゃんは? 寒くない?」
「おれは平気だよ」
「たっちゃん、私より寒がりじゃない」
「平気だって」
 少年──こちらは"たっちゃん"か。たっちゃんの声が少し意固地になった。しのぶちゃんが細い眉を寄せる。
「ほんとう?」
「本当」と言ってから、それだけでは相手を説得できないと思ったらしく、たっちゃんは付け加えた。「寒がりだったのなんて、子どもの頃の話だよ」
 みゆきは危うく吹き出しかけた。
 けれど、それより先にしのぶちゃんが口を開いた。
「私たち、まだ子どもじゃないの」
(うわあ……)
 みゆきは笑いそうになったのも一瞬忘れて、わけもなく心の中で嘆声を上げた。少女はきれいな面立ちに微苦笑を浮かべていた。あどけなさの残る顔立ちに、はっとするほど大人びた表情だった。
 しのぶちゃんがそんな表情でそんなことを言わなければ、みゆきはたっちゃんのセリフに、それこそまだあなただって子どもじゃない、と軽く吹き出していただろう。けれど、今はなぜだか笑う気になれない。
「……小さい頃ってことだよ。もっと小さかった頃」
 たっちゃんがぶっきらぼうに言う。しのぶちゃんの方はさすがに、今もまだ小さいわよ、などとは言わずに静かに笑っている。たっちゃんは彼女から少し顔を背けたようだった。心なし彼の耳が赤くなったような気がするのは、何も寒さのせいばかりではないだろう。
 なんだかすごいわ、とみゆきは変に感心した。いや、感心とは少し違うか。でも感嘆だと大げさすぎる。うまい言葉は見つからなかった。
「しのぶは、早く大人になりたいんだよな」顔を背けたままでたっちゃんが言った。「中学生なんて子どもだって言うんだろ?」
「だって、本当にそうでしょう?」しのぶちゃんは特に気分を害した様子もなく笑っている。「たっちゃんは? 早く大人になりたくないの?」
「おれは別に、そんな風には思わないけどな」
「どうして?」
「急がなくても、いつかはなれるものだし。それに……」たっちゃんはそこで軽く深呼吸したようだった。「今、楽しいから。おれはずっと今のままでもいいくらいだよ」
「へえ、そうなんだ」
 しのぶちゃんは意外な様子で目をしばたいた。
「しのぶはどうなんだ?」
「私?」
 少年が、反らしていた顔をようやくしのぶちゃんに向けた。
「今、楽しくないの?」
「そんなことないわよ」しのぶちゃんはにっこりと笑顔になった。「さやかもいるし、今年はたっちゃんとも同じクラスだったし、まだ受験生でもないもの」
「卒業したら今のみんなバラバラになって、違う高校に行ったりするんだ。そういうのってイヤじゃないか」
 しのぶちゃんは両手をうしろに回して、うーん、と首を傾げた。
「でも、新しい場所で新しい友達も出来るんじゃない? 今の友達とだって、別に会えなくなるわけじゃないでしょ。家だって近いんだもの」
 少年は黙っている。みゆきから、彼の表情は見えない。ただ背中はよく見える。姿勢は変わっていないはずなのに、少年はうなだれたように見えた。
(ああ、この二人、カップルじゃないわ……)
 みゆきは悟った。この二人は、カップルじゃない。たぶん、彼が、彼女を好きなのだ。二人はどうやら幼なじみらしくて、たっちゃんはしのぶちゃんと離れたりするのがイヤで。でも、しのぶちゃんはそのことに気づいていない。
 大丈夫よ、とみゆきはたっちゃんに言ってあげたくなった。しのぶちゃんの言うとおりだ。今日のみゆきは実際、高校時代の友人と会うところだった。中には中学の頃から一緒だったコもいるし、中学時代の仲間だけで集まることもある。学校がバラバラになり、更に社会出てなおさらバラバラになっても会えなくなるわけじゃない。高校で新しい友達が出来たことももちろんいい経験に決まっている。だから、しのぶちゃんの言うことは間違っていない。
 けれど、もう子どもではないみゆきは、同時にたっちゃんの言い分にも頷いていた。同じ学校に通って、同じ教室で授業を受けていた頃のようには行かない。今日、みゆきが会う友人たちだって一年ぶりや二年ぶりに合わせる顔が珍しくもない。会えば昔のように笑い合えるけれど、久しぶりの集まりが終われば、また別れて、ちりぢりに今の生活に戻って行ってしまう。離れたら離れたで彼らのいない生活に慣れてしまう。気持ちですら、いつまでも同じものではない。たっちゃんの気持ちだって思い出だけ残して変わる可能性はいくらもあった。
 でも、そうして変わっていってしまうことまで含めたすべてを悲しいことだとたっちゃんが心のどこかで感じているのだとすれば、彼の言うことは、より本当だ。
 

「そう言えば、たっちゃんはもう、進路決めた?」
 たっちゃんを覗き込むように、しのぶちゃんが言った。それが黙り込んでしまった幼なじみへの気遣いなのか、単なる彼女の純粋な興味なのか、みゆきにはわからない。
「あ、うん……」話題が変わったおかげで返事がしやすくなったのか、小さくたっちゃんが答える。「志望校なら、もう決めてる」
「決めてるってことは、やっぱり丑美津高校にするんだ」
「ああ」
「ずっと前からそう言ってたものね」
「昔っから父さんに丑美津高校はいい学校だって、ずっと言われてきたせいさ。家からも遠くないし、行くのが当然って気分になってるよ」
「丑美津高校かあ……」しのぶちゃんは少し上を向いた。細いおとがいの線がくっきり見える。「最近、本当にいい噂しか聞かないものね。名前は変だけど」
「父さんの知り合いで、丑美津高校の先生をやっている人もいてさ」
「そうなの?」
「うちの学校にぜひおいでって言われたよ」
「話したことあるんだ。どんな人だった?」
「父さんの学生時代からの友達らしいよ。まあ、うちにしょっちゅう来るわけでもないから詳しくはわからないけど、話したら、なんだかすごく優しい人だったよ」
「先生が優しいのって、いいわね」
「しのぶもさ、」ぱっと少年の声が勢いづいた。「受けてみたら?」
「丑美津高校を?」
「どうせ公立は一校しか受けられないんだし、私立だってどこかは必ず受けさせられるらしいし」
「丑美津高校って、そこそこ難しいはずじゃない」しのぶちゃんは困ったように笑った。「すべり止めにならないわ」
「しのぶなら大丈夫だって」
「それはわからないけど」しのぶちゃんは、ふと思いついたように、にっこりした。「でも、丑美津高校に行けばたっちゃんとはまた三年間いっしょにいられるわね」
 少年が、ほんのわずか仰け反るように身じろぎした。彼は何も言わず、押し黙る。
 しのぶちゃんは邪気のない笑顔を浮かべていたが、にわかにぶるっと震えた。手袋をはめた手が軽く自分の二の腕を掴む。
「あ、寒いのか?」
 我に返ったようにたっちゃんが言った。しのぶちゃんが、桃色の小さな舌を出す。
「ちょっとね」
「やっぱりどこかに入ろう」
「そうだね……さすがに仕方ないかな」
「本屋とかならそんなに混んでないさ、平気だろう?」たっちゃんは尋ねてから、少し忌々しげに呟いた。「もっと早くに気づくんだった……」
(その手があったか……)
 みゆきも胸の内で嘆息した。確かに本屋なら福袋を売っているような店よりはずいぶん混雑もマシだったろう。
「早く行こう」
 たっちゃんがうながす。しのぶちゃんが頷いて、二人は歩き出した。
 手を繋ぐようなことはない。ただ、並んで歩いて行った。
 

 みゆきは遠くなる二人の小さな背中を見送ると、腕時計を見た。いつの間にか、十五分ほどが経っている。自分も本屋へ行こうかと考えたが、なんだかあの二人を尾行するみたいでおかしい。みゆきはなんとなくその場を動く気になれなかった。なにか言葉にしがたい感慨が胸の奥にある。地に足がついていないと思った。十五分の間に十五年前の自分を思い出し、十五年先のあの二人を想像した。そんなひとつの時間旅行から戻ってきて、時差ボケしている。
「みゆき!」
 声を掛けられて、ぼんやり空を見つめていた視線をみゆきは正面に向けた。見知った顔が、近づいてくる。
「わあ、一恵? 久しぶりねえ」
「二年くらい会ってなかったわよね」
「一恵の赤ちゃんを見に行って以来だもの」
「そうね」みゆきの仲間内では若く母親になったひとりに数えられる一恵は笑ったが、すぐに眉根を寄せた。「って、みゆき。何だか唇が青いわよ」
「寒かったのよ」
「そりゃ、寒いのはわかるけど」
「バス時間を間違えて、予定よりずいぶん早く着いちゃったの」
「やあねー、ずっとここで待ってたの?」
「そうよ」
「そういう時はね、どこか暖かいところに入って待ってるものよ」
 お母さんの口調だなあと、みゆきは思う。
「知ってるでしょ。人ごみは嫌いなの」
「相変わらずねえ……」
 呆れたように一恵は溜息をついた。一恵もお節介焼きなところは相変わらずよと心の中で思いながら、みゆきは笑って首を振る。
「いいのよ。ちょっと、いいものも見られたし」
「いいもの?」
「可愛いカップル」みゆきはしのぶちゃんとたっちゃんが今し方まで話していた場所を指さした。「ついさっきまでそこにいたのよ」
「かわいいって、子ども?」
「うーん、子どもというか、中学生ね。……何だか、色々思い出したわ。私にもこういう頃があったなあって」
「やめてやめて」とたんに一恵が顔を顰める。「そんな、自分を年寄りみたいに」
「仕方ないわ」みゆきは、少しだけ笑った。今し方、あの少女が浮かべた微苦笑を脳裏に思い出していた。
「私たち、もう子どもじゃないもの」
 

 あの二人は、この先どんな人生を歩み、どんな大人になるんだろう。みゆきは思う。
 いま去っていった時のように、いつまで二人仲良く並んで歩くことが出来るんだろうか。ずっと一緒にいてくれたらいいな。たとえ高校に行き、やがては社会に出てバラバラになっても、せめてたまに顔を合わせて仲良く話をする関係がずっと続けばいいのに。
 彼らが去っていった方角を見つめながら、みゆきはしばらく、不思議なくらいの切実さでそう祈っていた。