友の絵
 

 それから一日二日して下級生は期末試験シーズンに入り、美術室には良子だけが足を運ぶようになった。先生はたまに絵の進み具合を見に来たが、物がものだけに余計な口出しをする気はないらしく準備室に引っ込んでいることがもっぱらで、良子は一人黙々とスケッチブックに向かった。
 その段になっても良子はまだ満足のいく習作を描けずにいた。デッサンの崩れは修正されていたし、写真に写るしのぶにもかなり似てきたが良子の記憶するしのぶとは何かが違って思えた。
 良子はスケッチブックの新たなページを開いて溜息をついた。
 軽く眉間をもんで窓の外に目を向けると空は夕焼けで血のように赤かった。春が近づいているとはいえ、まだ日は短かい。良子は美術室の電灯を点けてまたスケッチブックの広げられた席に戻った。
 蛍光灯の明かりより窓から差し込む赤い光の方が強い。白い紙が薄赤く染まっていた。
 良子はしのぶの写真を横目に再び鉛筆を紙面へと走らせはじめた。
 連日、写真を見つめてスケッチを繰り返したおかげでしのぶの姿は網膜に焼き付くくらいだ。
 周囲はとても静かだった。
 テスト勉強をしなくてはいけないから1・2年生は早々に帰宅している。先生たちは職員会議中とかで、物音はおろか人の気配すらない。
 画用紙の上をやわらかい鉛筆が滑る音だけがしていた。
 だんだん日が暮れていく。
 日が落ちるのと比例するように、良子の持つ鉛筆はなめらかさを増した。ウソのように迷いのない線を描き出す。
 いつの間にか自分がしのぶの写真を全く見ていないことに良子は気づいていた。けれどそれすら深くは気にならなかった。
 キャンバスに移す前の習作には充分な程度描いても、しのぶを描き出す彼女の筆は止まらない。
 髪のひと筋、瞳の虹彩、唇の赤み。
 そうしたものを良子は微に入り細に書き込む。
 ほとんど無意識の行為──というより『まるで何かに憑かれたような』精密さで。
 そのとき学校は、本当に静かだった。

 良子ははっと我に返った。
 すでに窓の外は真っ暗だった。ガラスが明るい室内を鏡のように映していた。
 良子は今し方まで自分が向き合っていたスケッチブックを凝然と見つめてその場に凍り付く。
 白い紙面の上には完璧な少女のスケッチが出来上がっていた。そこに描かれていたのは浅川しのぶそのものだった。けれど、しのぶの表情は良子が意図したような笑顔を浮かべたものではなくて、微笑しているように見えなくもないけれどそれ以上に暗い陰を背負って見えた。
「どうして……」
 良子は呆然と呟いた。こんな暗い絵を描くつもりはさらさらなかった。
 スケッチブックのしのぶは真正面の良子を見つめていない。心持ち斜め下に視線を向けている。小さな口元は結ばれているけれど、その視線の流れは物言いたげだった。良子の知るしのぶは大人しい少女だったが、それでもこんな陰鬱な表情は知らない。
 そもそもこの絵はなんだろう。
 自分にこれだけの絵が描けるとは、良子には思えなかった。
 自分が描いたはずの絵を見つめていた良子は周囲のあまりの静けさに気がついた。
 人の気配が全くなかった。まるで学校には良子ひとりだけのようだ。
 ふと、良子は背筋に寒気を覚えた。
 つめたい風が吹き付けてくるようになんだか背中が寒い。
 良子は音を殺してつばを飲み込んだ。
 「うしろの少女」の噂を思い出していた。
 夜、一人で学校にいると現れる血染めの少女の幽霊。いつの間にかうしろに立っている……。
 鳥肌が立つほど寒いのに、汗が流れた。
 ……うしろの少女なんて、いるはずない……。
 スケッチブックのしのぶを見つめて良子は自分に言い聞かせた。うしろの少女を認めることは、友人の死を認めることだ。
 ぎゅっと手を握りしめる。
 良子は勢いよくうしろを振り返った。
「…………、ほら」
 やっぱり、うしろの少女なんていないじゃない。
 良子は無人の背後を確かめて大きく息を吐いた。
 美術室の戸口が半分ばかり開いていた。まだ室内には暖房が必要なシーズン、これでは寒いはずだ。良子は戸を閉めるために笑って立ち上がる。廊下に近寄ってもひと気がないのは変わらなかった。職員会議はまだ続いているのだろう。
 今日はそろそろ帰ろうかと思いながら良子はとりあえず戸を閉める。
 それから画材を片づけるために席に戻ろうとして、良子は足を止めた。
 まだまだ暖房がなければ寒い。
 暖房のついていない廊下への扉を開けっ放しにしておくなんて、するはずがなかった。自分はきちんと扉を閉めて絵を描いていたはずだ。それなのになぜ、開いていたのだろう……。
 良子は思わず閉めたばかりの戸を振り返った。
 扉は閉まったままだったが、その向こうで小さな靴音が遠ざかるのを聞いた気がした。
 

 それからしばらく経って、結局、良子はくだんのスケッチを顧問に差し出した。
 迷いに迷ってのことだった。本当は油彩にするつもりだったし、こんな暗い絵をしのぶのために残すのもどうかと思っていた。けれど新たにスケッチブックに習作を描いても、到底、その暗いしのぶの絵ほどに友人を思わせる絵は描けなかった。それならせめてと、キャンバスに移して彩色することを試そうとしたけれど、木炭で下絵を描き始めてすぐに良子はそれにも挫折した。
 卒業式も押し迫っていた。良子にとっては賭けにも似たやむをえぬ決断だった。
 浅川しのぶを描いたスケッチを見せられた顧問は、やはり目を瞠った。
「すみません。本当はきちんと油彩にするつもりだったんですけど」
 むむむむ、と顧問が唸るので、良子は小さくなった。
「どうしても、これ以上のものを描けなくて」
「いや……こりゃ驚いた! 渾身の作品ぢゃのう」
「え、あ、はい」
「こんな事を言ったら怒られるかもしれんが、きみがこんなに人物を描けるとは正直思っとらんかったわい」
 顧問がにこにことそう言って、良子は初めて胸をなで下ろした。
「実は、私もそう思ってます」
「友達を思う気持ちかのう。これは立派な出来ぢゃ」
 出来を誉められたことよりも、友達を思う気持ちと言われて良子はさらに気が楽になった。だからこそ、いつもなら自分に描けないような絵が描けたのかもしれないと思えた。
「定着スプレーで保護して額に入れれば充分見映えもするぢゃろう。喜んで飾らせてもらうぞい」
「ありがとうございます!」
 そして、その絵は顧問の言葉通り、良子たちの卒業式の日から美術室に置かれることになった。
 天井近く桟の上に飾られると、まるで初めからそこに置かれることを知っていたかのように、描かれたしのぶの物言いたげな視線は美術室を訪れる人々を見つめていた。
 

 あれから十年以上の月日が流れた。
 今でも良子は時折、不意にあの絵を思い出す。その回数は今年に入って確実に増えていた。
 それは、しのぶが巻き込まれた事件があと二ヶ月弱で時効を迎えるからであろうし、未解決のその事件がしばしばテレビで取り上げられることもあるからだろう。
 ──と、良子はそう思っていたのだが。 
 あの絵を思うとき、心をよぎるのは不安だった。暗雲が胸に立ちこめる。
 あの絵は本当に置いてきて良かったのだろうか?
 未完成の絵を置いてもらっていることに対するためらいや引け目ではない。もっと根元的な不安は、最近では重みを増して良子の手に余るほどになりつつある。
 静かに視線を投げかけるあのしのぶの絵が、今も変わらず美術室に飾られている。
 それを思うともはや不安を越えて怖いほどだった。何かとても、怖ろしいことを自分はしてしまったのではないかと思うのだ。わけもないのに。
 しのぶさえ見つかってくれれば──。
 その度に、良子はそう考える。
 しのぶが生きていることさえわかればこんな不安は覚えなくていいと、そんな気がしていた。
 ピンポン、と軽やかな玄関チャイムの音がして、良子は我に返った。
 時計を見るといつも彼女の夫が帰ってくるような時間になっていた。夕食の下準備を済ませたあと、いつの間にかまたあの絵について考え込んでしまっていたらしい。夫がチャイムを鳴らすなんて珍しいことだったが、もしかすると鍵を忘れたか、どこかで落としたのかもしれなかった。
 玄関の前で待つ人物を迎え入れるために、彼女は気を取り直して立ち上がった。
 

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