満月
 

 今夜は月がきれいだ。神田は夜空を見上げ、そう思った。
 空は藍を何重にも重ねた色をしていた。天頂には白く月が輝いている。
 月は満ちていた。
 そろそろ月の一番美しい季節だ。うっそうと茂る木々の影で彼の周囲はひときわ暗く、月の光が闇によく映える。明神山の中腹から見る空は下界から見上げるよりも少しだけ彼に近く、白い月明かりが鮮やかだった。
 そのせっかくの月も、今宵この村の中で見上げている人間は皆無に違いない。この村に脈々と語り継がれる伝説はまるで信仰のように村中を覆い、村人は誰もが恐れおののいて家の中に引きこもっていた。
 もったいないことだ。
 だが、だからこそ神田は安心して人を殺せる。
 彼は月から外した視線を自分の足元へ投げかけた。
 神田の足元には出来たての死体がひとつ転がっていた。つい先ほどまではわずかに指先を痙攣させていたが、今はそれもやみ、どこまでも完璧な死体だった。
 死体の傍には吸いかけの煙草と携帯用の灰皿が落ちていた。
「社長?」
 神田は足元の死体に呼びかけた。
「社長、そんなところで寝ていると風邪を引きますよ」
 むろん、死体から返事のあろうはずがない。問いかけは沈黙によって報われる。
 神田は自分の口元が笑みの形に歪むのを感じた。衝動を抑えきれずに、思わず低い笑い声を洩らす。
 まさか、こんな風に自分が死ぬことになろうとは、この社長は夢にも思わなかったに違いない。
 このところの完治は上機嫌だった。無理もないことだと思う。会長キクの死によって綾城商事は今のところ完治のものと言っていい。完治がかねてから強く望んでいた事業への進出も、もはや妨げられることはない。正当なる後継者が現れない限りは、その状態が続くはずだった。その後継者も今や生きているか死んでいるかすらわからない有り様だ。
 完治について言うならば、この男はユリが生きていないことをほぼ確信していたようだ。
 家を飛び出した娘ではあるが、親身になってくれた母親の葬儀にも顔を出さないような不義理をできるたちの女ではなかった。綾城商事会長の死は一般のニュースでも取り上げられている。それにも関わらず姿を見せないのは、もはや生きていないからだ。それが完治の言い分で、事実、それで間違いないことを神田は知っている。
 神田が見る限り、綾城完治という男は愚者ではなかったろう。
 完治は典型的な仕事人間だった。家庭よりも仕事と、会社を愛している。家庭人としては極めて落第だろうが、社長としてなら十分に有能だった。キクほどではないが人望も篤い。会社の内部、自分の有能な味方に対してならばいい上司・いい社長なのだ。
 一方で、会社や部下のためならば手段を選ばない強引さもあった。昔に比べれば法の整備が進み、世間の目が厳しくなったこともあって徳兵衛時代ほどの無茶は行われていないが、徳兵衛と完治、この二人の本質は同じなのかも知れないと神田が思ったこともある。
 おそらく、商売の世界などというのはすべからくこんなものなのだろう──と。
 さすがにこの歳になり、さらに今の地位を得て神田にも理解できる部分もあった。だからといって過去に刷り込まれた憎悪を忘れてやれるわけでは無論なかったが。
 いずれにしても、綾城完治はもう終わった。
 そろって輝かしい夢を見た直後に死んでいった完治親子を思い、神田は弔い代わりに『天国と地獄』を口ずさんだ。
 

 やがて口を閉ざし、神田は膝を折ると死体の傍にかがみ込む。
 死体の脇に散らばる煙草も灰皿も神田が、今は死体となった男に渡したものだ。神田は吸い殻に改めて火を点け灰に還す一方で、携帯灰皿を拾い上げるとしっかり蓋を閉ざしてハンカチに包み、無造作に自分のスーツへ納めた。神田の足元を風が吹き抜けて、吸い殻に点いた火を赤々と勢いづかせる。風は煙草の灰もさらっていった。
 そのさまに神田は満足する。風さえも彼の証拠隠滅に手を貸してくれるのだ。
 神田は立ち上がると手近な木に背を預けた。腕時計を見れば白銀の文字盤が月明かりを反射した。
 時計の針はおよそ11時を指している。
 まだ、動くには早い。
 この時間帯、綾城家の勤勉な執事は屋敷の見回りを日課にしている。神田はそれを良く知っていた。
 ──毎日この屋敷すべてを見回るのは重労働でしょう。もう少し楽をされても良いのでは?
 そんなことを言って、神田が執事に日課の変更を求めたりしたこともある。だが、執事はやわらかな物腰で、しかし、かたくなにこの申し出を拒絶した。
「仕方ないな」
 神田は一人そう呟いて、スラックスのポケットから手のついていない煙草を一箱取り出した。
 彼のスーツの胸ポケットには、既に封の切られたケースが入っている。だが、それに手をつける気は毛頭なかった。ケースの中に入っているのは彼の好きな銘柄ではないし、何より、彼には毒薬入りの煙草を吸う趣味がない。
 宵闇の中にライターの火がともった。
 本来なら、こんなところで悠長に煙草を吸っている場合ではないのだろう。すぐに死体を動かせないとすれば、せめて一時的にでも死体のそばを離れた方がいいのだろう。死体の傍で煙草をくゆらせているこんな姿を見られればそれでお終いだ。
 そのくらいは神田にも良くわかっていた。彼の計画において、完治の殺害は折り返し地点の少し手前という程度に過ぎない。神田が殺した人間は完治でようやく三人目であり、彼にはあと三人殺すべき相手が残っている。綾城家の血筋を一掃した後にもやるべきことがある。神田としては、まだ当分の間、捕まるわけには行かないのだ。
 それでも神田がここを動く気になれないのは、ひとえに気分が良いからだった。
 この場所は四百年の昔に綾城の当主が立て籠もった砦跡から近いということで、普段から人通りは極めて少ない。しかし、迷信抜きで考えれば、その場所は道をほんの少し外れた程度の位置にあって、仮に人が通れば見つかる可能性は低くなかった。
 今宵がいくら村の者が滅多に出歩かない夜だといっても、絶対とは何事においても言い切れないものだ。山の麓に置いてきた車を疑問に思って、上がってくる者もいないとは限らない。
 だが、それでも神田が今いる場所からは綾城の屋敷が良く見えた。綾城家の人間の死体を足元にして、綾城家を見下ろすのはたいそう爽快だ。こんなに気分のいい経験は、滅多に出来るものではない。
 神田は自分用の携帯灰皿に吸い殻を落とした。
「親父とお袋がここを選んだ理由が良くわかるな」
 誰にともなくそう呟いて、ぱちんと音を立て灰皿の蓋を閉める。彼は、綾城家の人々のようなチェーンスモーカーではなかった。
 

 神田の二親はここで首を吊った。綾城家を呪いながら、せめてもの腹いせに綾城の屋敷を見下ろして死んでいった。
 神田自身もまた、その日に死ぬはずだった。少なくとも両親には高校も卒業していない息子一人を残して死ぬ気などなかったろう。
 彼は月を見上げた。
 ──あの日にここで死ぬはずだった自分が今もこうして生きて、月を見上げている。
 神田の意識は一種奇妙な感慨に満たされる。
 もう二十年以上も前のその日、この地で彼が生き残ったのは偶然に過ぎないような出来事だった。いや、単に覚悟が足りなかっただけか。両親に続いて縄に首を通した神田だったが、あっさり意識を失いかけたところで縄が重みに負けて解けた。
 地面に投げ出された彼は脳に充分な血流が戻るまでここに突っ伏し、ようやく身動きできるようになった頃には二親はすでに息絶えていた。
 かすんだ目を何度もしばたいて、四肢は地面に突いたままで、神田は父母の遺体を見上げた。ほどけた縄が自分の下になっているのに気づいて神田は自身が死に損ねた理由を悟った。縄の結びが甘かったのだと。
 そして、再び木からぶら下がる両親へと目を戻して、その遙か上方の空に月が見えた。
 煌々と光を放つ満月だった。
 そのとき神田は呪う、という言葉の意味を腹の底から知った。
 ──ずっと昔、綾城家の当主は呪いの言葉を残したという。綾城の家に仇なすものあらば、我、死後の世界から甦らん、と。その言葉どおり、綾城家に何かあるとき、死者となった当主たちは満月の晩に甦るのだとこの村の者たちはかたくなに信じている。
 ならば、神田の家の者にもまた呪うことが出来るだろう。綾城家の者に出来て、神田に出来ない理由はない。自分はそのために生き残った。
 いや、むしろ一度は死んだも同然。自分は甦ったのだ……。
 今と昔。全く同じように月を見上げて、全く同じように彼は思う。
 これは呪いだ。
 あの日死んだ両親が綾城家に掛けた呪いが、そして一度は死んだ神田自身の呪いが、神田の身体を借りて甦り、いま綾城家を呪っている。
「……いい月だ」
 本当に、いい月だ。
 そう言って神田は綾城の屋敷を見下ろし、深く笑った。
 彼の計画は、まだこれからだった。
 
 

window close