その声を知らない
 

「昨日ね、洋子が映ってるビデオを貰ってきたの」
 橘あゆみが突然そんなことを言い出したのは、もう年の瀬も押し迫ったある日のことだった。
 事務所に空木の姿はない。あゆみと直哉の二人は言いつかっていた資料や書類の整理を終えてしまって、それは忙しいはずの師走に突然ぽっかりと現れた休息の時間だった。昼下がりの空木探偵事務所には傾きの大きい冬の日射しが降り注いでいる。窓の外には冬特有の白っぽい青空が広がっていた。
 コーヒーでも飲もうか。直哉がそう声を掛けて、二人は本来なら来客用の応接セットでお茶にした。
 窓の外では寒々しい音を立てて、時折、風が吹き抜けていく。だが、ガラス越しの陽射しとエアコンのお陰で事務所の中は暖かい空気に満たされていた。時計の秒針は正確なリズムを刻んでいたが、その間隔も心なしか緩やかに聞こえるほどだった。
「この事務所も大掃除するのかしら?」
「今してる、この書類の整理もそうなんじゃないかな」
 そんなたわいもない話をしたあとに、ふと、あゆみが思い出したように冒頭の台詞を口にした。
「昨日ね、洋子が映ってるビデオを貰ってきたの」
 直哉は口元でコーヒーカップを止めると、目を上げた。
「……洋子さんのビデオ?」
「ええ」あゆみは両手でカップを包むようにしながら、頷いた。「冬休みにも入ったし、久しぶりにお線香を上げに洋子のおうちに行ったんだけど、洋子のお母 さんがね……」


 時の流れというのは、この世に生きる誰にとっても公平なものだ。
 時の流れが速いとか遅いとか、感じ方は人それぞれ違うのだろうが、生きてさえいればいつかは必ず明日が来るし、それを繰り返せばやがては新しい年も迎え ることになるだろう。それは、この一年をそれなりに幸福に過ごした人にとってもそうだし、ほんの二月ばかり前に娘を殺されるという悲劇に見舞われた小島秋 江にしても、そうだった。
 洋子の母親が娘を偲んで、故人の部屋にはほとんど触れずにいることを直哉は聞いていた。それでも年の瀬ということもあって、秋江も娘の部屋以外は多少の 整理をしたらしい。その時、娘の高校の入学式に撮影したビデオを見つけたのだと言う。
「ダビングしたもので良ければ、私にも持っていて欲しいって」
「洋子さんのビデオか……」
 直哉はコーヒーカップをテーブルに戻し、呟いた。カップの中に出来た琥珀色の波紋が納まるくらいの時間を掛けて言葉を探し、改めてあゆみに目を向けた。
「それで、あゆみちゃんはもう、そのビデオ見たの?」
「ううん、まだなの。……なんとなくね」
 伏し目がちに微笑むあゆみに、直哉は黙って頷きを返した。
 亡くなった人間が元気に、明るく過ごしていた頃の姿を目にすることは、残された者にとっては慰めであると同時に悲しいことでもあるだろう。高校の入学式 のビデオじゃ、なおさらだよね。直哉は口には出さずに、そうも思った。小島洋子はその高校に入学したばかりに、半年足らずで命を落とすことになったのだ。 それでもビデオの洋子には笑顔があるだろうし、その姿は彼女にも有りえた明るい未来を、見る者に想起させるだろう。それは、洋子の実際の行く末を知る者に とっては、辛いことに違いない。
 何より、今はもうどこにもいない小島洋子は、そのビデオを撮ったとき、彼女たちの前に、たしかに生きて居たのだ。
(──そうだ。そのビデオの中に、小島洋子はいる)
 直哉はテーブルにおかれたカップの中身をじっと眺めた。コーヒーの表面は、鏡のようにカップの淵の影と直哉の顔を映している。
「……ビデオなら、洋子さんの声も、入ってるんだろうね」
「そうね、たぶん……」
 声には出さず、直哉は思った。
(僕は、小島洋子の声を知らない)


 高田直哉は、小島洋子の声を知らない。
 その事実に初めて直哉が気づいたのは、大きな鏡を背にしてのことだった。
 今のように穏やかでもなければ安らぎがあろうはずもない、身に迫る恐怖を目前に控えていた時だ。直哉はその時の一部始終を今でもハッキリと思い出せる。
 あの時、眼前に伸びる廊下は暗かった。
 黄昏時を過ぎ、明かりのない廊下はひどく長くて、闇が青から黒へのグラデーションを成してずっと向こうまで続いていた。光といえば片側にズラリと並んだ 窓が辛うじて拾う、わずかな外光だけだった。
 そんな闇に慣れた目を、時折閃光が灼いた。
 光にはほんのわずか遅れて雷鳴が轟く。その度に窓ガラスがびりびりと震えた。
 だが、思わず息を詰めるような轟音にも、近づいてくる足音は止まらない。足音は乱れることなく、まるで雷の音など聞こえていないように、決まったリズム で近づいてくる。直哉には雷鳴よりも自分の心臓の音の方がうるさいくらいに思えるのに、コツ、コツ、と、秒針のように正確なリズムで確実に近づいてくる足 音だけは、なぜかしっかりと耳に届いた。
 暗い廊下の中にあって、真犯人のシルエットはひときわ暗かった。小島洋子を殺した男の告白は続いていた。怒り、呪い、時に恐怖に声を震わせながら、日比 野達也はすべてを──少なくともあの時、彼が知っていたすべてを──告白しようとしていた。日比野が事実を一つ口にするたびに足音は大きくなり、そのシル エットは直哉たちへと近づいた。
 窓の外、遠く雲間に稲光が走った。
 日比野は、かつて彼自身が小島洋子に告げられたという言葉を語った。
「『先生。先生は、昔、人を殺したわね……』」
 その言葉を告げられた瞬間、直哉は戦慄した。
 『先生。先生は、昔、人を殺したわね……』
 そう日比野は言った。間違いなく、その言葉を口にしたのは日比野達也に相違ない。
 しかし、なぜだろう。
 その言葉は、日比野のものとは違う声で、直哉の耳へと届いたのだ。


 あの時、殺人犯を目の前にしているのと比肩するほどの恐怖を直哉は感じた。
 ──今のは誰の声だ。
 聞こえたのは、女の声だった。少女のような若い声。けれど決して高くはない。日比野の声に被さるように、それは聞こえた気がした。
 ──今の声は。
 けれど、直哉はその声を知っていた。これまで何度も、その声を聞いた気がしていた。耳で聞いたのではなくとも、頭の片隅で繰り返し、その声を思って きた。
 それは、小島洋子の声だ。
 小島洋子が遺した言葉を直哉が耳にするのは、何もその日比野の告白が初めてではなかった。洋子はわずか一週間ほどの間に、様々な人に様々な言葉を残して きたのだ。
『お母さん、私、変な夢みちゃった』
『彼女、本当に、あなたのうしろにいるかもしれないわよ』
『しのぶさんは、今でもきっと、丑美津高校のある場所に、います……』
 この事件の被害者、この事件の鍵。おそらくは金田事件の真犯人に辿りついた唯一の人間でもある彼女の言葉を、直哉は事件の間中、幾度も振り返ってきた。 そうして振り返る時に、洋子の言葉は決まって同じ声で聞こえていた。
 だが、
 ──僕は、洋子の声など知らない。
 高田直哉は、生きている小島洋子とは面識がなかった。彼女が書き残した字を目にしたことはあっても、彼女が話している姿は見たことがない。だから当然、 洋子の声は知らない。知らないに決まっている。
 ──じゃあ、ずっと聞こえていた「この声」はなんだ?
 洋子の言葉はどれも謎に満ちたもので、洋子の言葉を教える時の人々は、いつもどこか戸惑うように遺された言葉を口にした。
 それなのに、洋子の言葉を振り返る時、その言葉は確信の響きすら持って直哉には聞こえていたのだった。そして、彼女の言葉を告げるのは、決まって、その見知らぬ少女の声だった。


「直哉くん?」
「えっ?」
 呼びかけられて直哉は顔を上げた。
 あゆみがわずかに眉をひそめて覗き込んできていた。
「コーヒー、何かおかしかった? ……今日のには何も入れてないわよ?」
 直哉は我に返って、思わず吹き出した。
「違うよ、そうじゃなくて。ちょっと、洋子さんのビデオのことを考えていたんだよ」
「洋子のビデオのこと?」
「うん」
 一度頷いてから、直哉は改めてコーヒーを口にした。空木が好む豆は酸味が少なくて苦みが強いが、あゆみの淹れてくれたコーヒーは直哉自身が淹れるより格段にやわらかくて飲みやすい。ずいぶん冷めてしまったことが惜しかった。
 そのコーヒーを半分ばかり飲み、気を取り直して直哉は言った。
「洋子さんのビデオさ、そのうち、ひとみちゃんも呼んだりして一緒に見たらどうかな」意識して、優しい口調を心がけた。「……ひとりで見なくちゃいけないってものでもないと思うよ」
「ああ、そうね。ひとみちゃん」あゆみは軽く目を瞠り、ややして弱い笑顔になった。「そうね。……いつか、そうする」
 それからあゆみは軽く首を傾げた。
「その時は、直哉くんも一緒に見る?」
「……そうだね」
 直哉はコーヒーカップをソーサーに戻した。
 事件が解決したあとも、直哉は時折、思い出したようにあの声について考えてきた。けれど、時が経つに連れてその声の印象は薄くなり、なぜか二ヶ月経った今はもう、どんな声だったのか全く思い出せない。
 ビデオで洋子の声を聞いても、それが直哉の中に聞こえていた<あの声>と同じか、違うか、確かめることはできないのかも知れなかった。そもそも確かめる必要もない気がする。あの声は所詮、洋子の容姿から、いつのまにか自分が勝手にイメージしていただけの声だと思うのが、道理なのだろうから。
 それでも、直哉は小島洋子の声を、考えた。
 ──あの事件を解決へ導いたのは、彼女の遺した言葉だった。
 ならば、それを告げた声を知ることには、きっと意義がある。
「……良ければ、呼んでもらうかも知れない」
 言って、直哉は目を窓の外へと向けた。
 ガラスの向こうには、事件が解決した翌日と良く似た青空が広がっている。


 
 

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