往者
 

「ワタシさ、この高校の出身なのよ」女教師は言った。「高校三年間、いいことばっかりでもなかったけど、振り返ってみるとそれなりに楽しかったの。うちの高校で良かったなって思ってて」
「はい」
「だから今の生徒にも楽しんで過ごして欲しいなって思ってたのよ。……まあ、だから何をするってわけでもなくて、漠然と思ってただけだけどね」それから葉山ははーっと大きく息を吐いた。「でもさ、今、みんな顔が暗いのよ」
 あゆみは葉山の言葉に心の中で頷いた。たしかにあの事件の後、学校の空気はずいぶん変わったように思う。
 そして、そうだ、とあゆみは気がついた。『あの事件の後、学校の空気が変わった』というのは、正確に言えばあの事件が起きた後ではない。おそらくは、あの事件が解決した後のことだった。
「やっぱりワタシのせいなのかしらねー」
 葉山の言葉にあゆみは、え? と声を上げる。
「何がですか?」
「事件」
 女教師の答えは端的だった。「……まあね。他にも色々だけど。だってほら。少なくとも小島さんに余計なこと話しちゃったのはワタシでしょ」
 葉山は気まずげにあゆみから目を反らしてあさってのほうを向いていた。
 あゆみもまた葉山の顔から目を反らす。
「洋子は……そういうこととは関係なく、真犯人にたどりついた気がします」
「そうかな」
「はい……。なんとなくですけど……」
 安易な慰めではなく、実際そんな気はした。非科学的な話だとはわかっていても、あゆみは今でも親友と浅川しのぶとの間に何かのつながりを感じずにはいられない。事件に巻き込まれる直前の友人は、そう思わせるほど普通ではなかった。
 だから、たぶんこの女教師は責められるべきではない。もし葉山久子が洋子に十五年前の出来事を話していなかったらと仮定することには、意味がない。
 あゆみは葉山の横顔に視線を戻した。
「それに、葉山先生のお話がなかったら、あの事件は時効が来るより前に解決したかわかりません」
「時効ね」
 そうよねー、と葉山は声を伸ばした。
「時効直前に事件が解決して、犯人が捕まって」ドラマみたい、と小さく言って葉山はひとり頷いた。「やっぱりうやむやになったらマズイわよね」
「はい」
 窓の外の西日を見たまま、葉山が首をかしげる。
「探偵って、ホントに普段からそういうことするの? 事件の真相を突き止めたりって、マンガとか小説だけの話かと思ってた」
「そんなに多くはないですけど……ええ、時々は」
「ふーん」葉山はまだ、あゆみに横顔を見せていた。「そうなんだ。そうだよね。やっぱり悪いことをした人は捕まらないと」
「そう思います」
「でも」
「でも?」
 葉山は遠い目をして言った。
「正しくても、誰も幸せにならないこともあるわね」
「え?」
 思わず問い返して、あゆみは女教師の言葉を口の中だけで繰り返した。
 ──正しくても、誰も幸せにならない?
 口にして初めて、あゆみは葉山の言った意味が飲み込めた気になった。つまり、この教師は犯人が捕まったことは誰も幸せにしなかったと言っているのだ。
 あゆみは思わず口を開いた。
「でも、犯人を放っておくなんてできません」
 口に出すと思う以上に強い口調になった。だが、それも仕方ない。あゆみは友人を殺された。その時に感じた怒りは今も忘れていない。犯人を放置するようなことは許せない。
「そうね」葉山は困ったように受け流した。「だから、正しいことなんだって」
「『正しい』」
「うん、そう。日比野先生を捕まえたことは正しいことよ。浅川さんの遺体だって、こんな所に隠されてるべきじゃなかったわ。それを間違いだって言ったつもりはないの。ただそれで誰か幸せになったのかなって。それだけ」
「幸せ……、ですか」
「浅川さんがここで見つかって。日比野先生が捕まって。校長が亡くなって……ってのを良かったって言ったらマズイんでしょうけど。事件が解決してハッピーだなって本当に思える人がいるならいいの。……ほら、特にあなたは小島さんと仲が良かったらしいから」
「はい」
「だから、あなたくらいはすっきりした顔してるかなって期待してたんだけどね」
「それは……」
 それは無理だ、とあゆみは思った。
 洋子を殺した犯人が捕まっても友人が帰ってくるわけではない。犯人が捕まったからと言って、ああ、良かったと清々しく言えるはずはない。
 『この事件が解決して、幸せになったか』?
 それはないとあゆみは認めざるをえなかった。犯人が捕まらないよりは良かったと思う。しかし、洋子の担任が犯人だったという真相を知って幸せかと問われれば、きっと違う。あゆみも、おそらく小島秋江もそうだろう。
 被害者と直接の関わりがなかったこの学校の生徒や職員は、きっとなおさらだった。自分たちが習っていた教師や、同僚。それにあれほどの尊敬を集めていた校長の生徒殺しという事実が明らかになって、良かったなどと思えるはずはない。
 事件を解決したことは間違いではない。決して間違ってなどいない。けれど、それは誰かを幸せにしたろうか。
「ゴメン。教師の言う台詞じゃなかったわね」
 葉山が苦く笑って、あゆみは我に返った。「いえ……」
「ワタシさ」
 あゆみを気まずそうに伺いながら、葉山が口を開いた。
「ワタシ、三月いっぱいでこの学校辞めることにしたんだ」
「えっ?」
 驚いてあゆみが顔を上げると、葉山は意味のわからない照れ笑いを浮かべていた。
「うん。やめるの。辞表はもうずいぶん前に出してて」
「知りませんでした……」
「まだしばらくはナイショにしててね」
 立ち話が疲れたように葉山は壁に寄りかかった。
「無責任かなって思ったんだけどね。今の学校、見捨てて逃げるようなもんでしょ」
 その台詞にあゆみはふと気がついた。
「あの、差し出がましいようですけど。もしかして洋子に金田事件の話をされたことで何か……」
「ああ……ううん? ワタシに対する風当たりが強いかって言うんでしょ? そうじゃないわ。あなたたちが黙っててくれたおかげで、小島さんに金田事件の話をしたことはべつに知られてないし。……ただ、さすがに暗いみんなの顔を見てるのが辛くなってね。どうしても自分のせいじゃないかって気分が抜けないのよ。なんだろう。こういうのも良心の呵責っていうのかしら?」
「じゃあ、他の学校に移られるんですか?」
「ううん、それもなし」
「え……」
「そうなの。教師を辞めるの。ま、簡単に次の異動先が見つかれば続けようかなとも思ってたんだけど、今は教職も競争激しくって。だったらまあいいかって気になっちゃった。ワタシ、たぶん教師に向いてなかったのよ」
「そんなこと……」
 葉山は首を振った。あゆみはかける言葉を失う。
 あの事件が解決して、真相を明らかにして。
 それは間違いなく正しいこと。
 けれど、それで幸せになった人はいたか?
「ああ、ほーんとヘンなハナシしちゃったわね」葉山は苦笑する。「これだからワタシ教師に向いてないって言うの」
 あゆみはどんな顔をして良いか分からず途方に暮れた。
 あゆみが窮しているのはさすがにわかったらしく、葉山はゴメンゴメン忘れてと手を振る。そこに丁度、チャイムが鳴った。
「あ、ほら、もう下校の時間よ」
 会話を終わらせる契機を得て、明らかにほっとしたという様子で葉山が言った。あゆみはそれでも何か言おうとしたが、結局、かける言葉は見つからなかった。
「ワタシは何も見なかったことにして先に行くから、橘さんも早く帰るのよ。一応、他の先生に見つからないようにね」
「……はい」
 あゆみはそれしか言えず、頭を下げた。葉山は短くうんと頷いてあゆみに背を向けた。葉山はそのまま、いつも通りの少しせかせかした足取りで廊下を去っていく。この学校を去れば、葉山はまた明るい色のスーツを着て踵の高い靴も履く気になるだろうか。
 その立ち去る背中を見ていたあゆみは、急に声を上げた。
「葉山先生!」
「えっ、なに?」
 いきなり呼び止められた女教師が驚いてあゆみを振り返る。
 あゆみは言った。
「あの、これ、私がお世話になってる探偵事務所の先生から聞いた話なんですけど」
「ええ……?」
「日比野先生が」
「え……?」
「日比野先生は、あの事件が解決して、すごく落ち着かれてるって」
「……」
「まるで悪い夢から覚めたみたいだって。ようやく本来の自分を取り戻したみたいだって……」
「日比野先生が」しばらく黙ってから、そう、と葉山は小さく呟いた。「そっか……」
 それから、葉山はふいに笑顔になった。
「良かった」
 葉山が言った。
 その顔を見て、良かったとあゆみも思った。本当に良かった。
 葉山がほほえむ。
「このお花はワタシが片付けておくわね。工事が始まったら危ないから、もう入らないように」そう言った葉山は何かに気づいたように目を上げる。「──今のはちょっと先生っぽかったかな」
「そう思います」
 あゆみは笑顔で答えた。
 葉山は頷くと、気をつけて帰るのよと言って軽く手を上げる。
「橘さん」
「はい」
 葉山はわずかにあゆみを振り返って言った。
「ありがとう」
 あゆみは黙って葉山を見送った。彼女はそれ以上あゆみを振り返ることはなかった。
 あゆみが葉山とゆっくり話したのはそれが最後だ。
 その月の終わりに女教師は高校を去り、事件の舞台となった旧校舎は更地へと還された。
 
 


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