冷たい3月雨・前編
 
 

−BGMには伊藤敏博「サヨナラ模様」(昭和56年8月)がいいでしょう−
 
 

それは消えた後継者「綾城家遺産相続連続殺人事件」の起こる少し前のことだった。

昭和63年3月25日、僕は事務所に一人。
あゆみちゃんは朝早くから外出中だ。
昨日までの晴天が嘘のように今日は曇っていた。
そして、昼前に降り出した突然の雨。
雨が降り出して、少し時間が経った頃だろうか・・・
僕は事務所のドアのあたりに人が立っているのに気付いた。
仕事の依頼だろうか?でも電話はまだ一本もない。
誰だろう、何故か入りづらそうだ?
僕は事務所のドアを開けた。
ドアを開けると、そこには雨に濡れた一人の女の子だいた。
「あのー、そんな所にいつまでもいると風邪を・・・・あれ?」
僕は彼女が誰なのかすぐにわかった。
「あれ?三津子ちゃんじゃないか。」
「あっ、直哉君・・・」
「とりあえず濡れた体を拭きなよ。」
雨に濡れた三津子ちゃんに、僕は一枚のタオルを差し出した。
「ありがとう。」
三津子ちゃんの声は、何故か暗かった。
彼女は森岡三津子、僕の1つ年下で同じ孤児院で育った。
肉親のいない僕にとっては妹のような存在だった。
同じように、三津子ちゃんも僕を兄のように慕ってくれた。
三津子ちゃんも僕と同じように両親を見つけるために、去年、中学卒業を機に孤児院を出た。
それから彼女は牧沢市のアパートで一人暮らしで内職しながら両親を捜していた。
あれは、去年の夏頃だった。
 

−直哉の回想(1年前・昭和62年夏)−
 

夏の盛りのある日、僕は仕事の依頼人に会うために牧沢市に来た。
「えーっと、朝森日佐男、朝森・・・朝森・・・この辺りのはずだ。」
僕は依頼人、朝森日佐男の家を探している所だった。
「あれ?直哉君・・・直哉君でしょ!?」
「えっ・・・」
偶然にも三津子ちゃんとすれ違った。
「あっ、三津子ちゃんじゃないか。どうしたんだいこんな所で?」
「私も孤児院を出たの、両親を捜すために。今、この街のアパートで一人暮らししてるの。」
三津子ちゃんと会うのは一年ぶりだ。
「そうなんだ。僕は、大里市の空木探偵事務所で探偵の助手をしてるんだ。」
「へぇー、直哉君、探偵なの。」
「うん。今ちょっと仕事で来てるんだ。あとで君の部屋に行ってもいいかな?」
「来てくれるの!?・・・嬉しい!」
「アパート教えてくれないか?」
「ここよ。はいっ・・・」
三津子ちゃんは1枚の紙切れを差し出した。
その紙には住所が書かれていた。
【牧沢市上牟田町5丁目45−3かもめ荘5号室】
「かもめ荘か・・・素朴でいい名前だね。じゃあ夕方ごろに行くよ。」
「うん。・・・待ってるわ。」
三津子ちゃんは、走っていった。
彼女の生活は恵まれているとは言えないけれど、輝くばかりの生き生きとした顔をしていた。
そんな妹の笑顔がまぶしいよ。
そんな事を思いながら、三津子ちゃんの走ってゆく後姿を僕は見ていた。
 

−現実に戻る−
 

あれから、何度か三津子ちゃんのアパートには足を運んだな。
でも、彼女の方から僕に会いに来たのは今日が初めてだ、一体何故だ?
それに、気のせいか三津子ちゃん、ずいぶんやせたように見える。
「三津子ちゃん、どうしてこんな所まで来たの?」
「・・・・・・・・」
「僕に逢いに来てくれたのは嬉しいけどさ・・・どうして、さっきから何も言わないの?」
「・・・・・・・・」
どうも様子がおかしい?
沈黙の時間が流れる。
沈黙に耐えかねて僕が話し掛けようとした時・・・
「・・・直哉君・・・」
三津子ちゃんは小声でつぶやくように僕の名を呼んだ。
「えっ・・・」
その時、三津子ちゃんは急に泣きながら僕に抱きついてきた。
「私には、もう直哉君しかいないの!・・・」
「な、何だい!?急に・・・」
彼女の態度の急変に僕は動揺してしまった。
「直哉君に会いたかったの。」
「何だい今ごろ・・・去年も何度か逢ったじゃないか・・・三津子ちゃんこそ、孤児院を出て、両親は見つかった?」
「両親は・・・私の両親は・・・」
三津子ちゃんは、何故かしゃべりづらそうだった。
「・・・・お願い!直哉君!」
「ただいま・・・えっ!?・・・ちょっと!直哉君何してるの!この子誰よ!?」
しまった!あゆみちゃんが帰ってきた。
「いや、あゆみちゃん何でもないよ。」
「じゃあ、一体何!このありさまは!?」
しまった!とんでもないところを見られてしまった!
しかし、あゆみちゃんも、そんなに怒らなくたっていいのに・・・
「あなたは誰よ!?」
あゆみちゃんが、三津子ちゃんの胸倉に掴みかかった。
あゆみちゃんは、僕と三津子ちゃんが抱き合っていた姿を見て、すっかり我を忘れている。
こ、これは大変だ!とりあえず、三津子ちゃんの事を話そう。
「あゆみちゃん、この子は森岡三津子って言うんだ。僕の1つ歳下で16になったばかり。僕の孤児院時代の幼なじみなんだ。」
「直哉君は私にとっては兄のような人よ。あなたは?」
「私は橘あゆみ、直哉君と同じこの探偵事務所の助手よ!・・・えっ・・今、直哉君が何だって・・・!?」
「・・直哉君は・・・私にとって、お兄さんみたいな人だって・・・直哉君も私を妹みたいに可愛がってくれたの・・・」
三津子ちゃんの声は震えていた。
あゆみちゃんに掴みかかられて脅えている。
「い・・・妹!!?直哉君、この子がいたこと私に隠してたの!?」
「あうっ・・」
怒りであゆみちゃんの手が震え三津子ちゃんの首が絞まる。
「隠すなんて、そんな・・・それよりもあゆみちゃん、手を離してあげなよ。」
僕はあゆみちゃんの手を止めた。
あゆみちゃんは、静かに手を引いた。
「隠すなんて・・・三津子ちゃんとは、血はつながっていないよ・・・」
「解ってるわよ!」
「血は繋がっていなくても私達、兄妹なんです・・・そんな兄妹は認められないんですか・・・?」
「うるさいわねっ!何度も言わなくても解るわよ!別にいいんじゃない!」
しまった!三津子ちゃん、この状況で、なんてまずい事を言ってしまったんだ!
「ごめん三津子ちゃん、せっかく来てくれたのに・・・今日の所は帰った方がいいよ。」
「う・・・うん。」
「あゆみちゃん、ちょっと待ってて・・・」
僕は三津子ちゃんを連れて、事務所の外へ出た。
そして後で会う約束をすることにした。
あゆみちゃんには、聞こえないように・・・
「ごめん、三津子ちゃん。この近くに公園があるんだ。そこで待っててよ・・・」
「うん。」
「じゃあね。三津子ちゃん。」
あゆみちゃんには、三津子ちゃんが帰ったものと思わせることにした。
そして、早くあゆみちゃんの誤解を解かなくちゃ・・・
それにしても、あんなにも怒ったあゆみちゃんを見るのは僕もはじめてだ。
そう簡単に誤解は解けそうにないな・・・
先生は1ヶ月前から長期出張に出てしまっている。
事務所は僕とあゆみちゃんの二人きり、やりづらい状況だ。
先生がいればうまくまとめてくれるのに・・・
でも、いないものはいない。
今は僕がなんとかしなくちゃいけないんだ。
「あゆみちゃん、ごめん・・・待たせて。」
僕は、三津子ちゃんを見送ると、あゆみちゃんが待っている事務所に戻って来た。
「長かったわね・・妹がそんなに可愛い?」
「僕だって、17年生きてきたんだ。兄弟みたいに親しい幼なじみぐらいはいるよ、あゆみちゃんだってそうだろ?」
「でも、さっきのは一体何!あんなに抱き合って!あれでも幼なじみなの!?」
「三津子ちゃんが急に抱き付いてきたんだ。僕にもさっぱり訳がわからないよ!」
誤解が解けないのに苛立ちを覚えた僕、気が付けば僕まで声が殺気立ってきた。
だ、駄目だ・・・僕まで感情的になっちゃ・・・
「ただ、三津子ちゃんは小さな頃から、気が弱くて、よく泣いてた・・・だから、僕が傍に居てあげないと・・・」
「直哉君って、妹には優しいのね!」
しまった!これも逆効果だった。
でも、ここまで言ったら今更後には退けないな。
「三津子ちゃんは、血は繋がってないけど、可愛い妹なんだ。だから放っておけない。」
「・・・!!」
あゆみちゃんは、僕のその言葉に驚いた。
「・・直哉君・・・私の前からいなくなっちゃうの・・・?」
突然、あゆみちゃんは涙ぐんだ。
「まだ何もわからないよ。」
本当に何が何なのか・・・・
「とにかく、三津子ちゃんは何か思い詰めていたんだ。多分それであんな事を・・・」
僕は自分で発したこの一言で暗く沈んだ三津子ちゃんが余計に気になった。
あゆみちゃんの誤解を解くべきか、三津子ちゃんが何を言いたかったのかを聞くべきか・・・
「彼女は僕に何かを言いたかったんだよ。」
「でも、私の前で直哉君に抱き付くなんて・・・許せない!」
「それは仕方無いさ、ずっと彼女は僕を兄のように慕ってくれていたんだ。」
「何ですって!?・・・なら、昔からあんなに・・・!?」
だめだ、誤解は解けそうに無い。
あゆみちゃん、間違っても早まったことはしないでくれ・・・
「僕、ちょっと出かけてくるよ。」
「何処へ行くの!?」
「依頼があったんだ。あゆみちゃんの留守中に・・・もう時間が無いんだ。」
僕は外へ出てゆく口実に依頼があったと誤魔化した。
だけど、あゆみちゃんには嘘ってばれてるだろうな・・・
僕はあゆみちゃんを残し事務所を出た。

外は雨、遠くで雷の音も聞こえる。
僕は三津子ちゃんを待たせたはずの公園にやって来た。
「ごめん、三津子ちゃん。待たせて・・・あれ?」
だが、三津子ちゃんは、そこにはいなかった。
「おかしいな、ここにいるはずなのに・・・あっ!」
その時、僕は思い出した。
この公園は、あまり人通りのない場所にある。
そして、ここから離れた事務所を挟んだ反対側の所にも公園がある。
その公園の方が広い通りにあって、人通りも、ここより多い。
三津子ちゃんは、その公園に行ったんだ!
そうだ、あの時はあゆみちゃんを気にするあまり、詳しく話せなかったんだ。
「近く」としか・・・
僕はその、もう一つの公園に向かった。
僕は走って、その公園にやって来た。
ところが三津子ちゃんはいなかった。
「あれ?どうしたんだろう?本当に帰ったのかな?とりあえず、この辺りを捜して見るか・・・」
僕は三津子ちゃんを捜し、走り回った。
「すみません、この辺りに16歳くらいのやせた女の子を見ませんでした?」
「さあ、16歳くらいのやせた女の子ったってありふれてるからなぁ・・・」
「どうも、ありがとうございました。」
確かに、でもあまり手がかりになるものがない。
三津子ちゃんの服装ぐらい覚えていれば・・・
結局、自分以外頼れない。
ひたすら街を捜し回っても見つからず、あきらめかけたその時・・・
 

「そんな勝手は許さないわ!」
「そ・・・そんな・・・」

バシッ!

「きゃあっ!」
 

「あっ!あの声は!」
あゆみちゃんと三津子ちゃんの声が聞こえた。
あゆみちゃん、僕の後を追って来たんだな、そして僕がもたついている間に先回りして・・・
三津子ちゃんが危ない!
僕は声のする方へ走った。
「ああっ!」
そこは、全くと言っていい程、人が通らない潰れた工場跡。
工場の入口は閉鎖されて道はそこで行き止まりになっている。
三津子ちゃんが、その行き止まりで追い詰められて脅えている。
「な・・・直哉君・・・!助けて・・・」
「甘ったれんじゃないの!」

ビシッ!バシッ!

「きゃあああっ!」
あゆみちゃんは、泣いている三津子ちゃんを強烈に張り倒す。
「や・・・やめるんだ!あゆみちゃん。」
僕は、止めに入った。
「直哉君は黙ってて!この子は・・・!そんな事で直哉君を奪おうなんてムシがよすぎるのよ!」

バッシーン!

三津子ちゃんは、あゆみちゃんの強烈なビンタで、吹っ飛び倒れこんだ。
「さんざん直哉君に甘えて・・・いつまで甘ったれてるつもりよ!!」

ビシッ!バシッ!

しかし、そんな倒れた三津子ちゃんにも容赦することなく叩き続ける。
「あゆみちゃん・・・もうやめるんだ!」
「直哉君は手を出さないで!・・・この子はっ!!」

バシィッ!!

僕の制止を振り切って、あゆみちゃんは、また三津子ちゃんを張り倒した。
「あゆみちゃん、落ち着くんだ。」
とりあえず、あゆみちゃんの手を止めておかなければ。
「こんなに叩かなくてもいいだろ!」
僕はあゆみちゃんを睨みつけた。
「な・・・直哉君・・・」
あゆみちゃんは、ようやく手を止めた。
「あゆみちゃん、三津子ちゃんと話をさせてくれないか。」
気が付けば、僕もあゆみちゃんも三津子ちゃんも、雨に濡れてしまった。
「三津子ちゃん、涙を拭きなよ。もう大丈夫だ。」
「ううっ・・うっ・・うん・・・・」
「あゆみちゃんも、本当は優しい人なんだよ。」
とは言ったものの、少し離れて僕達を見ているあゆみちゃんは、まだ怒っている。
不安だ・・・
「三津子ちゃん、朝、僕に言いたかった事って・・・何だい?」
「わ・・・私、小さな頃から直哉君をお兄さんのように思ってたの・・・」
「僕もだ、僕等は孤児同士。三津子ちゃんは僕にとって妹だったよ。」
「私、泣き虫だから・・・そんな私を、いつも直哉君が守ってくれたよね。」
「ああ・・・そんな三津子ちゃんが可愛かった。血は繋がっていないけど妹なんだなって・・・」
「だから、両親に・・・あっ・・・あああ・・・・」
三津子ちゃんは、また何かに脅えだした。
僕は後ろを振り返ると・・・
また、あゆみちゃんが怒って近づいて来る。
「待った!あゆみちゃん、しばらく口をはさまないでくれ。・・・それで何?三津子ちゃん。」
「あれは、去年の暮れ頃だったわ。私、両親を見つけたの。」
「良かったじゃないか。僕も嬉しいよ。」
「でも私、両親に嫌われたの。子沢山の両親にとって私は邪魔な子なんだって言われたの・・・」
「そんな・・・ひどいや。実の子なのに・・・」
三津子ちゃんのやつれた体が泣き崩れていく。
「私、それから、何ものどを通らなくなって・・・」
「そうだったのか、それでこんなにやせて・・・でも、そのままじゃ栄養失調になっちゃうよ。」
「解ってる・・・でも、駄目だったわ。体が受け付けないの・・・私って一体何なの?あぁ・・・」
泣き崩れ、倒れようとした三津子ちゃんを、僕は抱きとめて支えた。
「大丈夫かい?」
「うん。」
「どうして僕の所へ来たんだい?」
「両親に捨てられた私にはもう、兄さん・・・直哉君しかいないんだって・・・そう思ったの・・・」
「そうか・・・なら僕が出来る事なら何でもするよ。言ってみなよ。」
「直哉君に本当のお兄さんになってほしいの。」
「えっ・・・僕に!?」
さすがに、僕もその言葉に驚いた。
その弾みで、手を離してしまった。
「また!この子ったら!」
怒ったあゆみちゃんが走ってきた。
僕は驚いた事で隙が出来てしまい、一瞬にして三津子ちゃんは、あゆみちゃんに掴まった。
「そんなムシのいい甘えは許さないわ!」
あゆみちゃんは、三津子ちゃんに掴みかかり手を振り上げた。

ビシッ!バシバシッ!

「きゃあっ!・・・な、直哉君・・・」
「直哉君は、あなただけの物じゃないのよ!」
また三津子ちゃんは泣き出してしまった。
「や、やめるんだ、あゆみちゃん!」
僕は、また止めに入った。
「邪魔しないで!」

ドンッ!

「うわっ!」
あゆみちゃんが、止めに入った僕を突き飛ばし、また三津子ちゃんを叩きだした。

バシィッ!!

「また泣いてるの・・・甘ったれんじゃないの!」

バァンッ!!

「きゃあっ!ぁっ・・・あぁっ・・・あぁぁぁ・・・」
そして、あゆみちゃんは泣いている三津子ちゃんを容赦なく叩く。
「や、やめろっ・・・!」
いくらあゆみちゃんでも、許せない!
「僕の妹に・・・何するんだあっ!!」

ボガァッ!!

「きゃあああああっ!」
怒りのあまり僕はあゆみちゃんを力一杯に殴った。
あゆみちゃんは、吹っ飛び、コンクリートの壁に叩き付けられた。
「・・・ひ、ひどい!直哉君っ!」
「ひどいのはあゆみちゃんの方だ!孤児の気持ちのわからない君につべこべ言われたくない。黙れ!」

ドガガガーーン!!

僕の真後ろの方向に雷が落ちたようだ。
倒れたあゆみちゃんは僕を下から見上げている。
あゆみちゃんから見れば、僕の姿が雷で一瞬掻き消され、再び浮かび上がったように見えただろう・・・
「三津子ちゃんは僕の妹だ!妹にこれ以上手を上げるなら僕も黙っちゃいないぞ!!」
あゆみちゃんは、泣き出してしまった。
「・・・直哉君・・・直哉君のバカ!・・・わぁぁぁぁ・・・」
あゆみちゃんは泣きながら怒って走り去っていった。
「はっ・・・!」
この時、僕はとんでもない事をしてしまった事に気が付いた。
でも、まずは三津子ちゃんの話を聞かなければ・・・
 

そこには僕と三津子ちゃんが残された。
「あうっ・・・ぁぁ・・・」
三津子ちゃんは、倒れたまま泣いている。
「痛かったかい・・・でも、もう心配無いよ。」
僕は三津子ちゃんの頭を撫でた。
「・・・ぁ・・ぁ・・・」
「さあ、これで涙を拭いて・・・両親に冷たくされてから、どうしたの?」
僕は一枚のハンカチを差し出した。
そのハンカチで三津子ちゃんは、涙を拭いた。
「・・・また一人暮らしを始めたの・・・」
「また、元のアパートに戻ったのかい?」
「うん・・・また内職で暮らしてるけど・・・生きてる実感が無いの・・・」
「そうか・・・それで、僕を・・・」
「私、いっそ死んじゃった方が・・・」
「それはやめるんだ!僕に出来る事なら何でもする・・・だから・・・」
何とかできないだろうか・・・・そうだ!
「僕と一緒に空木先生の事務所に来なよ。」
「それは出来ないわ。」
そうか、あゆみちゃんが絶対承知しないだろうな。
「あゆみちゃんも、あんな人じゃないんだけどな・・・」
はっ!僕は、さっき怒りに任せて殴ってしまったんだ!
僕は今さらながらあゆみちゃんが気になってしまった。
「直哉君がいいなら、私の部屋へ来て。」
「えっ、僕は・・・」
「直哉君が、私の本当の兄さんになってくれたら・・・明るく生きていけそうな気がするの。」
僕は迷った。あゆみちゃんも気にかかるし、三津子ちゃんの事も放って置けない。
「ちょっと、考えさせてくれないか・・・」
「私、部屋で待ってるから・・・」
どうするべきか、僕は迷った。
そういえば、僕も三津子ちゃんもあゆみちゃんも、濡れたな。
あゆみちゃんも気になるし、濡れた体も何とかしなくちゃいけないし、とりあえず事務所にでも戻ろう。
「駅まで送って行くよ。」
「ううん、それはいいわ。直哉君、びしょ濡れでしょ・・・」
「そうだね・・・ありがとう。」
僕は、三津子ちゃんと別れると、急いで事務所に向かった。
 

事務所に戻るとあゆみちゃんがいた。
「た・・・ただいま。」
「・・・・・お帰りなさい・・・」
「あ、あゆみちゃん・・・」
僕は、さっき殴った事を謝ろうとした。
「なあに・・・」
「か・・・帰ってたの・・・」
僕は、まださっきの事で、あゆみちゃんに対して素直になれなかった。
それから僕は何も言わず、奥の部屋で濡れた服を着替えた。
「直哉君・・・本当に・・・本当に行っちゃうの?」
「えっ・・・ぼ、僕は・・・」
あゆみちゃんの顔は哀しげだった。
僕はひたすら迷った。
片方を選べば、必ずもう片方が傷ついてしまう、とはいえ両方は選べない。
どちらかを捨てなければならない。僕は、その決断を迫られた。
あゆみちゃんが、今にも泣きそうな顔で、淋しそうに僕を見ている。
その時だった、僕の脳裏についさっきの鬼のようなあゆみちゃんが浮かんだ。
そして、同時に暗く沈んだ三津子ちゃんの顔も・・・
僕は何も言わずに、事務所から飛び出した。
「直哉くーん!!」
あゆみちゃんの叫びも振り切って、僕は傘も持たずに駅への道を走った。
 

− 冷たい3月雨 前編  完 −
 

思いもよらぬ三津子の登場に直哉とあゆみの間に生じた亀裂。
二人は、もう元には戻れないのだろうか・・・?
二人の関係は、今まさに崩壊へ向かおうとしている・・・
あゆみに後ろめたさを抱いたまま飛び出した直哉。
さて、直哉は、あゆみを捨て切れるのだろうか?
とり残されたあゆみは、自ら命を絶ってしまうのか?
そして、三津子は・・・
彼等を待つのは、悲劇だけか・・・
 

後編に続く・・・
 
 
 

では、ここで伊藤敏博の「サヨナラ模様」について触れてみましょう。
フィリップスレコードから昭和56年8月25日にリリースされましたな。
切ない気持ちを唄い上げたメロディーが心に染み入りますな。
第21回ヤマハのポピュラーソングコンテストつま恋本選会においてグランプリを受賞。
国鉄車掌歌手として脚光を浴びたものですな。
彼のレコードは他にも数枚持っておりますが、どれも素晴らしいものばかり。
「サヨナラ模様」は、今でも聴ける機会は多いので、知らぬ方は、是非とも聴いてみましょう。
 

この度は、話の流れを解り易くするため修正、加筆し容量が倍以上に増えたため前後編に分割致しました。
前編の話の展開を見直してみると、少々異なるものの
三津子の心情は「サヨナラ模様」の歌詞によく似ておりました。
それは私自身も驚いております。
従来版の推奨BGM、狩人「青春物語」(昭和53年3月)は後編のものとしました。
そちらにつきましては、後編終了時に触れてみましょう。

もう一度忠告致します。
ここまで見てしまった以上は後編の最後まで読み切りましょう。
ここで辞めると後悔なさいますぞ。
 
 

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