悲しい犯罪者 前編
 

一章 再会
 それは本当に偶然の出会いだった。
 高田直哉はその日、捜査のために隣町の大里町に来ていた。
「えーと・・・」
 直哉はさっき聞いたばかりの証言で気になった点を確認するため、使い古されてボロボロになった手帳を開いて歩いていた。と、彼は前から歩いてきた男性とぶつかってしまった。
「す、すみません」
 直哉があわてて謝ると、相手は「いえ、こちらこそ」と応えた。
「ちょっと考え事をしていたものですから」
 男は続けて言うと顔をあげ、直哉の顔を見た。見る見るうちにその表情が驚きで塗り替えられていく。
「もしかして、直哉じゃないか?」
「え?そうですけど・・・」
 いぶかしげな顔をする直哉に、相手の男は意地悪そうな笑みを浮かべた。その笑みに直哉は不意に一人の少年の姿を思い出した。まだ子供の頃によく一緒に遊んだ男の子だ。
「もしかして・・・、恵美兄さん?」
 相手の男はその言葉を聞いて、表情を意地悪そうな笑みから人懐っこい笑みに変え、直哉の肩に手を回した。
「そうだ、良かった思い出したか。久しぶりだな、お前が家を出て以来だから、3年ぶりくらいか?いったい今まで何をしていたんだ?」
 直哉はこれまでのこと、家を出てから空木探偵に拾われ、そして探偵になったこと、いくつかの事件を解決したこと、そして本当の両親が誰か、最近ついに知ることが出来たことを話した。恵美は直哉が家出をした理由を知っていただけでなく、その手助けまでしていた。
「そうか、結局本当の両親には会えなかったのか、残念だったな」
「でも、両親のことについて多少でも知ることができたから」
 直哉は恵美に微笑んで見せた。
 その男性、恵美は名前を村瀬といい、直哉よりも3歳年上だった。二人は同じ孤児院で兄弟のように育ってきた。直哉が家出をするまでは。しかし、その家出も恵美の協力の下に行われていた。
「そうか、しかしお前が探偵になっていたとはなあ・・・、まあ、両親を捜すにはうってつけの職業だったかもな・・・」
 そこで恵美は言葉を切ると言いにくそうに直哉の顔を眺めた。少し逡巡したあと、意を決したように一度息を吐くと、
「ところで、ばあちゃんのことなんだが・・・」
とだけをやっとの事で言ったが、すぐにまた口をつぐんでしまった。しかし直哉には恵美が何を言いたいのか理解できた。そこで、一度うなずくと、
「知ってる・・・」
と答えただけで、それ以上は何も言わなかった。
「そうか、知ってたか。となるとこれは無駄なことかもしれないけどな、ばあちゃんは最後までお前のことを気に掛けていたぞ」
「うん。でも、帰るに帰れなくて」
 直哉はばつが悪そうに頭をかいた。
「みんなとも約束したし、それに、両親を見つけるまで帰らないって自分に誓ったから。でも・・・」
 しかし、直哉はそこで言葉を切ると、俯いた。
「過ぎてしまった物は仕方ない、それよりどうだ?久しぶりにみんなに会いたいと思わないか?」
 突然の申し出に驚きの表情を浮かべる直哉に向かって、恵美はニッと笑ってみせる。
「俺がみんなを集めるから、都合のいい日を聞かせろよ、みんな、直哉に会えると聞いたら、多少都合が悪くたって無理してでも来るさ」
「でも、それだとみんなの迷惑になるんじゃ?」
「バーカ、迷惑だったら誰が無理するかよ、お前に会いたいからに決まってるだろ?それともお前はみんなに会いたくないのか?」
「まさか!会いたいに決まってるよ。それじゃあ、みんなの都合のいい日が分かったら教えてくれる?携帯の番号を教えておくから。それで僕がその日に休みを取るから」
「大体の希望はないのか?」
 手帳に電話番号を書いている直哉に向かって恵美は尋ねた。直哉は手帳からそのページを切り取ると、恵美に手渡し、本当にいつでも良いよ。と答えた。
「分かった、日取りが決まったら知らせるからな。それと、これが俺の連絡先だ。今時珍しく携帯は持っていないけどな」
 恵美は番号を記したメモ用紙を直哉に渡すと、豪快に笑った。彼は昔から変わっていない。この笑い声でどれだけ安心させられたか分からない。直哉はそんなことを思いながらその日は恵美と別れた。
 直哉の携帯に電話がかかってきたのはその次の日だった。

二章 携帯
「ただいま」
 直哉がいつもの通り、その日の調査を終え事務所の扉を押し開きながら声を掛けた。
「あ、おかえりなさい」
 女性の声が応える。
「どうしたの、こんな時間まで」
 時刻は既に午後七時を大きく回っていた。
「うん、ちょっとね」
「それにどうしたの、この部屋は」
 直哉が最後に見た時には綺麗に整頓されていた筈の室内は、見るも無惨なほどに散らかっていた。
「うん」
 歯切れの悪い声のあとに少しためらっているかのような間が空き、さらに続いて、
「実は、携帯をどこかに忘れたらしくて」
「え?あゆみちゃんが?」
「うん、そう」
 橘あゆみは恥ずかしそうに頷いた。
「どこに忘れたか、思い当たる節はないの?」
「うーん、それが、一昨日家に帰ったときくらいから見あたらなかったの。ただ、昨日は私、お休みをいただいていたから、多分、事務所に忘れてきたんだと思っていたんだけど」
 あゆみは困ったように、眉根を寄せると、どこかで私の携帯見なかった?と直哉に聞いた。
「いやごめん、見てないよ。事務所に忘れたことは確かなの?」
「だと思うんだけど・・・」
 あゆみの答えは歯切れが悪かった。直哉は、あゆみに一昨日のことをもう少し詳しく思い出させようと、いくつか質問をした。
「その携帯を最後に見たのはいつ?」
「確か一昨日の正午、出先から事務所に報告の電話を入れたのが最後だったと思うけど。そのあと、すぐに事務所に戻ってきたから・・・」
 さすがにあゆみも記憶に自信を持てなくなっているのか、言葉尻に近づくほどその声量は聞き取りにくいほどに小さくなっていった。
「じゃあ、その出先に忘れてきたんじゃないの?」
「うん、私もそう思って、昨日、そこに行ったんだけど、無かったのよ。警察にも届けたんだけど、そういう報告は受けていないと言う話だったし」
「じゃあ、誰かが持って行っちゃったのかもしれないね」
「うん」
 あゆみは小さくうなずく。その表情は相当気落ちしているように感じられた。
「新しいのに買い換える?」
 直哉の言葉に、あゆみはますます悲しそうな表情を見せた。
 その表情を見つめていた直哉は小さく、あっ、と呟くと、
「携帯に直接電話はしてみた?もしかしたら誰かが出るかもしれないし」
「うん、何度か試してはみてるんだけど、どうも電源が入っていないらしくて・・・」
 そうか・・・。直哉は一瞬納得したような声を出したがすぐに、
「電源が?あゆみちゃんは電源を切ったりしてないよね?」と疑問を口にした。
「ええ」
 あゆみはうなずいてみせる。
「ということは、今現在誰かが持っているということじゃない?電源が勝手に切れたりはしないはずだし」
「あ!そうか、そんなことにも今まで気づかなかったなんて・・・」
「きっと、相当頭が混乱していたんだよ。普段ならすぐ気づいたんじゃないかな?それよりも、もう一度電話をかけてみたら?」
「そうだね。もしかして、電源を入れているかもしれないし。悪いんだけど、事務所の電話を使わせてもらうね」
 あゆみは直哉にそう断ってから事務所の電話のボタンを一つずつ押していく。すべて押し終えてしばらく待つと、突然、驚きの表情を浮かべた。そして、直哉に向かって声を出さず、口の動きだけで電話が繋がったことを伝えた。
「すみません、私、その電話の持ち主の橘というんですが・・・、はい・・・、ええ・・・、はい、もちろんです。はい、ありがとうございます」
 あゆみはしばらくして電話を終え、ホッとした表情で振り向いた。
「どうだった?」
「うん、拾ってくれた人が、返してくれるって。ただ、明日、明後日とは忙しいから明々後日にもう一度連絡してくれるって」
「ふーん、良かったね」
 直哉はあゆみに微笑みかける。あゆみは、うんと、頷いた。
「それで、いつ頃に連絡してくれるって?」
「午前中には電話しますってことだったけど。あ、ちなみに電話は事務所にしてくれるらしいんだけどね」
「となるとその時間、あゆみちゃんは事務所にいないといけないね」
「そうなるわね。今のところ特に用事はないから良いけど」
 ピリリリ、ピリリリ
 直哉の携帯が持ち主の注意を喚起する。直哉は、あゆみに断ってから電話に出た。
「もしもし、村瀬ですが」
「あ、恵美さん!」
「ああ、直哉か、こんな時間に悪いな。今、大丈夫か?」
「あ、はい、大丈夫です」
 直哉の隣では、あゆみが、彼女自身が散らかした物を片づけていた。しかし、直哉の電話の内容が気になるのか、ちらちらと直哉の方を盗み見ていた。
「この間の話な、急で申し訳ないんだが、明後日は時間あるか?」
「明後日?時間は?」
「午後六時頃からなんだが、大丈夫か?」
 恵美はやや不安そうな雰囲気を滲ませた声を出す。
「ちょっと待ってください・・・」
 直哉は手帳を開く。その時間には何の予定も記されていなかった。
「ええ、大丈夫です」
「そうか、それなら、明後日の六時に、今から言う店に来てくれ」
 直哉は恵美の言葉をあわててメモに取った。
「はい、分かりました」
 そんな言葉と共に電話を切った。
「今のは?」
 あゆみが興味無さそうに尋ねる。
「昔の知り合いから。この間偶然会ってね、その時にその頃の仲間をみんな集めてくれるという話になったんだ」
「へえ、そう」
 あゆみの言葉に、何故か冷たい物を感じながらも、直哉にはその理由が分からなかった。

三章 会合
 それから二日後、直哉は恵美に指定された店に来ていた。
 直哉がその店に着いた時、懐かしい面々は既に全員揃っていた。一目見て誰か分かる者、いくら考えても誰か分からない者、いろいろだったが、中でも、直哉が孤児院を飛び出した時まだ幼かった子供達は見違えるほどに大きくなっていた。三年という月日の長さを改めて感じながら、直哉は自分はどれくらい成長したのだろう?等と考えていた。そして、思う存分旧友との再会を楽しんだ。その時の場面を少しだけ抜き出してみよう。

 直哉は恵美に教えられた店の名前と大まかな住所を頼りになれない道をさまよっていた。急がないと遅れてしまう。そう思いながら足を早めても、一行に目的の店の姿は見えてこなかった。そしてふと気が付くと、直哉は数分前と同じ場所に立っていた。
「弱ったな・・・」
 そんな呟きを漏らしながら、恵美の言葉を思い出す。
『駅からまっすぐ行って二つ目の信号を渡り、最初の角を右だ』
「うん?」
 ふっと右手を見ると、細い路地が見えた。
「もしかして、ここかな」
 直哉はあまり期待せず、その路地を奥へと進むことにした。しかし、
「あった・・・」
 それはまさしく、恵美が直哉に伝えた店と同じ名前の店だった。
 それは、こんな路地の奥深くにあるとはとても思えないほど異例な建物だった。レンガ造りの壁に愛らしい窓が取り付けられ、まるで夢の中から飛び出してきたかのような建物だった。店の名前はイングルサイド、直哉は少し気後れを感じながら扉を押し開いた。入り口からは店内を見渡す事が出来ない作りとなっていた。内部はざわめきが支配していた。
「すみません、今日は貸し切りなんです」
 店の従業員なのだろう、ピンクのエプロンを着けた女性が入り口の脇に立っていた。
「薫さん、こいつは良いんだよ」
 唯一店の入り口を見張ることの出来る席にいた男が立ち上がって、こちらに向かいながら声を掛ける。その言葉が合図だったかのように、店内は水を打ったように静かになった。そして次の瞬間には直哉の目に懐かしい面々が飛び込んできた。
「耕介、健作、雅美、俊樹、久しぶりだな」
 直哉は自分と同年代の仲間達の名前を次々と呼んでいく。
「正司さん、啓介さん、登美子さんもお元気そうで」
 彼らは直哉が家出した頃には既に社会にでて働きだしていた、直哉より4,5歳は年上の人たちだ。直哉が店に入った時に声を掛けてきた恵美もこの一団に入っていた。
 次に直哉は年下のグループに目を向けたのだが、そこで一悶着起こった。直哉が数人の名前を思い出せなかったのだ。直哉が平謝りに謝り、周りが必死になだめすかして、その場を何とか納めた。
「皆さん、お変わりもなく、元気そうで」
「おい、俺もいるぞ」
 突然の声に驚き、そちらの方に顔を向けると、厨房から白衣に身を包んだ男が顔を覗かせていた。
「み、充さん、じゃあ、もしかしてこの店は・・・」
「そ、充さんと薫さんの店だよ」
 恵美に薫さんと呼ばれた女性は直哉に軽く頭を下げ、
「大浦薫です」と名乗った。
 直哉もあわてて会釈を返してからはたと気付いた。
「大浦ということは、もしかして・・・」
 その視線は自然と充へと向けられた。大浦充は照れたような笑みを浮かべつつも、去年の春にな、と誇らしげに答えた。
 直哉はしばらくの間、話題の中心になっていた。恵美から大まかな話は聞いていたのだろうが、直哉の口から直接、現在探偵をしているとの言葉が出ると、こぞって、どんな事件に関わったのか?だの、危ない目には遭わないの?だとか尋ねられた。
 直哉は今まで経験した事件の中でも派手目なものを選んで皆に話して聞かせた。そして、最後につい数ヶ月前の事件について話して聞かせた。皆の中にはその事件を記憶しているものも多数いた。世間を相当騒がした事件なのだからそれは当然なのだが、その事件が直哉の手によって解決をもたらされたのだと聞かされ、皆は感嘆の声をあげた。
 それから今度は、集まった全員の近況報告会となった。
 海藤健作と磯川雅美の二人は同じ公立の高校に通っている。昔からこの二人は仲が良かったが、今でもそれは変わっていないようだ。たまに気が付くと、二人きりで楽しそうに喋っている姿が良く見受けられた。
 沖田耕介と船場俊樹の二人はすでに自分の食い扶持を自分で稼いでいた。
 村瀬恵美は数ヶ月前まで中堅の商社に勤めていたが、不景気のあおりを受け、現在無職となっていた。ここ数日は職安に通う日々とのことだ。先日直哉と再会した時も職安からの帰りだったらしい。島井正司と渡瀬啓介、澄田登美子もまた、会社勤めをしていた。そして、大浦充と薫夫妻は言うまでもなくこの店のオーナーだ。
 また、年少組は皆、全員まだ中学生も卒業していなかったが、卒業したらすぐにでも働こうと考えている者がほとんどだった。
 その為、その席は年少組が聞き手に回るによる社会についての質問会へと変遷していった。
 直哉は特に質問を多く受け、何度かたじたじとなる場面も見受けられた。
 同窓会は比較的和やかに、大きな事件もなく進行していった。そして、気が付くと解散の時間が近づいていた。最後の挨拶は直哉が音頭を取らされた。そして、直哉は懐かしい面々と連絡先を交換しあい、その日は楽しげな気分のままその日は閉会となった。
「おい、直哉」
 イングルサイドの扉を抜けたところで声が掛けられた。振り向くと、恵美が直哉に向かって手招きしていた。直哉は疑問に思いつつも引き返す。
「どうかした?」
「いや、もしかしてお前が知らないとまずいと思ってな」
 恵美は何故か声を潜め、周りに気を配りながら直哉に話しかける。直哉も釣られて小声で答えを返す。
「いったい何のこと?」
「いや、ばあちゃんのことなんだが」
 つい先日もこれと同じようなセリフを聞いたような気がする。不思議に思いつつもあの日と同じセリフを返そうとした。すると、恵美はそれを遮り、違う違う、と首を振った。
「ばあちゃんの命日のことなんだが、直哉、知ってるか?」
 直哉は無言で首を横に振る。
「実はもうすぐなんだ。良かったら一緒に墓参りにでも行かないかと思ってな」
「もちろん行くよ。それで・・・」
「悪い、俺このあと用事があるんだ」
 恵美は直哉の言葉を遮った。そして続けて、
「悪いんだが、明日の朝十時頃、家に電話してくれないか?」
「明日?」
「都合、悪いか?」
「大丈夫だよ」
 直哉は首を横に振った。
「そうか、じゃあ明日、電話頼む」
「それじゃ」
 恵美は本当に忙しそうに、駆け足で店内に駆け戻っていった。
 そのまま直哉は事務所に帰った。

四章 事件
Truuuu Truuuu
 それから3日後、事務所内に電話の呼び出し音が響き渡った。
 空木は現在出張中のため、あゆみが受話器を取り上げた。
「はい、空木探偵事務所ですが・・・。あ、林田警部補。はい、え!?分かりました。でも、先生は今出張中で、・・・ええ、はい、分かりました、すぐにそちらに伺わせます」
 それだけを言うと、あわてた様子であゆみは受話器をおろした。
「直哉君、事件が起こったらしいの!それで、直哉君に来てほしいって!」
「え?僕に?どうして?」
「さあ?なんだか、直哉君に聞きたい事があるって」
「僕に変わってくれたら良かったのに」
「あ、ごめんなさい。気づかなかったわ」
「まあ、良いけどね。それじゃ、行ってくるよ」
 直哉は身支度を整えると、警察署へと向かった。

「僕にご用と言うことですけど?」
 直哉は、すでに馴染みの林田警部補に面会を求めると、すぐに奥に通され、今は見慣れた顔と対面していた。
「ええ。実は、ちょっと一昨日のことを聞きたいんですが」
「一昨日?特に何もなかったと思いますが」
「いや、聞く順番が悪かったですね。高田君は村瀬恵美という人物を知っていますか?」
「恵美さんですか?ええ、多分」
「その彼と、一昨日何かありませんでしたか?」
「一昨日ですか?」
 直哉は思い出そうとうーん、と考え込む。そして、
「電話ならしましたけど」
「何時頃?」
「朝の十時頃ですけど。それが何か?」
 これではまるで取り調べではないか?事件っていったい何なんだろう?直哉はだんだん不安になってきた。そして、どうして恵美の名前が出るのか、それも理解できなかった。
「その電話はどちらからかけたんだい?」
「えーと、二度は僕からかけて、どちらも話し中だったんです。で、三度目をかけようと思ったときに今度は向こうからかかってきました」
「その最初の二度は正確には何時と何時?」
 林田警部補はかなり執拗に質問を続ける。直哉は不安でたまらなかったが、正確な返答だけを心がけ、林田警部補の質問に答えていった。
「一度目が、九時五十七分、二度目が十時三分です。ちなみに、恵美さんから電話がかかってきたのは十時十分少し前だったと思います」
「そうですか・・・」
 林田警部補はそれだけを言うと、黙り込んでしまった。直哉はそれでも数分は待ってから、
「あの、いったいどうしたんですか?」と尋ねた。
「ああ、失礼。実は、村瀬さんがある殺人事件の重要参考人になっていましてね。そのアリバイ調べをしているんですよ」
「殺人事件!?」
 直哉はあまりの展開に驚きの声をあげた。そんな直哉の様子にも林田警部補は委細かまわず、
「高田君は、沢良木洋一という人物はご存じですか?」と続けた。
「沢良木洋一?いえ、知りません」
「殺されたのはこの人物ですよ」
「その沢良木という人はどういう人物なんですか?」
 林田警部補は、ちょっと待ってください、と直哉に断りを入れてから手元の資料をめくった。そして、一つのページで手を止め、
「沢良木洋一、57歳、男性、金融業経営。しかし、その一方で強引な地上げまがいの行動も平気で行う不動産関係の仕事もしていた人物です」
「その人とめぐ、村瀬さんとどういう関係があるんですか?」
「それなんですが、高田君と村瀬さんとは同じ孤児院で育ったそうですね?」
「ええ」
「被害者の沢良木はその孤児院を潰した元凶のような人物なんですよ」
「どういうことですか?」
 意外なところで、意外な話が出て来たため直哉は前のめりに体を乗り出した。
「それは・・・」
 林田は自分の手帳を覗きながら説明をした。その話は元々その土地が誰の物であったかなど、かなり細かいところまで調べられていた。しかしそれを要約すると、元々孤児院が建っていた場所の土地を所有していた人物が、沢良木に多額の借金をした上で、孤児院の経営者に何の話もせずにその土地を担保に出し、借金の形にその土地が奪われたのだと言うことだった。
「それが、村瀬さんが沢良木と言う人物を殺す動機だと言いたいわけですか?」
「まあ我々としては、動機はある、と言う程度の認識ですけどね」と、林田警部補は頷いた。
「しかし、沢良木という人が地上げ屋をやっていたのなら、相当数の人間に恨まれていた可能性もあるのではないですか?」
「ええ、そうですね。彼のことを多くの人物が恨んでいたことは否定しません。もちろん我々はその人たちについても調べていますよ」
「それで容疑者は?」
「まだ、ほとんど分かっていない状態です。今は容疑者を絞り込んでいる最中と言ったところですね」
 そして、直哉は少し考えたあと、
「村瀬さんは、今日はすぐに解放されますか?」
「今日は事情聴取だけですしそんなに時間はかかりませんが、それでも今すぐというわけにはいきません」
「そうですか、何か分かったら連絡いただけますか?」
「ええ、いいですよ。元々そのつもりでしたし」
「よろしくお願いします」
 直哉は立ち上がって頭を下げると、そのまま体の向きを変えて出口に向かって歩き出した。

五章 概要
 警察に呼び出された次の日は特に何も起こらなかった。直哉は仕事に精を出し、恵美を訪ねていくようなこともしなかった。
 しかし、頭の中では常にその事件について考えを巡らしていた。あの後も林田刑事から事件の経過を聞いてはいる。しかし、いまいち進展はしていないようだった。話を聞く限り、これという決め手がないらしい。話を聞く度に林田刑事の苦悩がはっきりと感じられた。
 事件の概略は次の通りだ。

 事件のあった日、被害者の沢良木洋一は一人で家にいた。彼は生まれてこの方妻という物を持ったことはなかった。一人の女性とつきあうと言うことのできない性分なのか、ひっきりなしに相手を変えていたと、社員は口を揃えて証言した。
 そして事件の第一発見者はその女性だった。女性の名は水瀬朱美、年齢は24歳、駅前の繁華街のスナックで働いていた。
 朱美の証言によると、その日の朝目を覚ますと(といっても太陽がほぼ真上にあるような時間だったが)、軽く朝昼兼用の食事を取り、かねてからの約束通り沢良木の家を訪れたのが午後二時過ぎだった。
 朱美も初めは呼び鈴を鳴らしたが、何の反応もなかったので合い鍵を使い室内に入ったところ、死んでいる沢良木を発見したのが午後二時五分。そして震える声で110番に電話をしたのが午後二時十分、空白の5分間は恐怖で動けなかったのだと、朱美は後になって証言した。
 沢良木の死亡推定時刻は午前十時を中心として前後三十分、死因は鋭利な刃物で刺されたことによる出血死と見られている。現場には血まみれの登山ナイフが落ちていたため、これが直接の凶器ではないかと考えられ、鑑定の結果もそれを裏付けた。ただ、残念なことにはこの凶器はどこにでも売っているようなありふれた物だったため、こちらの方面から犯人を割り出すことはできなかった。また死体の上にコスモスの花が振りかけられていたが、何故そのようなことをしたのか、死者への手向けか、それともそれ以外に何か、隠された理由があるのか、それは判ぜんとはしなかった。
 そんな中、警察が現在容疑者と考えている人物は四人いる。その四人はそれぞれ、十分とは言えないまでも一応の動機を持っており、また確固としたアリバイを有してはいなかったがそれ以上絞り込むこともできないでいた。
 容疑者は、第一発見者でもある水瀬朱美、過去に沢良木の為に職を追われ、現在警備会社に勤務している清水正義、そして村瀬恵美と大浦充だった。
 現場の窓ガラスは割られており、そこから犯人は出入りしたようだった。そして、犯人は元々そこから出入りをするつもりだったのか、現場にうっすらと残っていた犯人のものと思われる足跡は、門扉を抜けてその窓の下まで、何のためらいもなく続いていた。
 現場には不審な指紋を発見することもできず、これと言った証拠も見つからなかった。ただ、現場には荒らされた様子がなかったため、動機は怨恨であろうという事しか分かっていなかった。

「結局手がかりはなし、か・・・」
 それからさらに一日時間が経ち、事件の発生から六日目になっていた。直哉は事件を思い返すと、そんなつぶやきを漏らした。
「どうかしたの?」
 あゆみが過去の事件のファイルを抱えたままで、直哉の顔をのぞき込んだ。今日は空木から二人で事務所の過去の事件ファイルを整理するように言われていた。そして空木は昨日から私用で外出していた。
「なんでもないよ」
「そう?」
 あゆみはそれ以上質問せず、ファイルの整理を再開した。
 直哉もあゆみに倣って手を動かしながら、頭の中では事件についての考えをまとめていく。
 いや、確か目撃証言があったはずだ、先ほどの考えを思い直す。
 沢良木の家の隣に住む主婦が、事件のあった日の午前十時三十分過ぎ、つまり沢良木の死亡推定時刻に沢良木の家の庭から走り去る男性を目撃したと証言していた。その主婦は、走り去る人影の顔をはっきりと見たわけではないが、それは男性だったと、自信を持って証言した。その人物が事件にどれだけ関与しているのかはまだ分かっていないが、事件を解決する上で、重要な人物である事は間違いないとして、現在警察でも必死の捜索が続いている。
「直哉君、直哉君!」
「え、何?」
「何?じゃないわよ、何をボーとしてるの?それ、逆さまよ」
「え?あ、ホントだ」
「もう何してるのよ」
 あゆみは直哉の隣に来ると、「ほら、これも逆さまじゃない、あ、これも、これも」と、すでに棚にしまった数冊を引き出してきた。
「いらない手間を増やさないでよ。もう、あとは私一人でするわよ」
「でも」
「何?まだ邪魔する気?私一人でやった方が絶対に早く済むって言ってるのよ。直哉君は邪魔だから外にでも出てて。今日は戻ってこなくても良いわよ」
「ありがとう」
 直哉はあゆみの真意を理解すると、それだけの言葉を残して扉へと走っていった。
「本当に世話が焼けるんだから」
 あゆみは部屋で一人になると、そんな言葉を口にした。

六章 捜査
 直哉は、沢良木殺人事件の捜査本部が置かれている警察署へとやってきた。受付で事件の担当者である林田に面会を求めると、あっさりと中に通してもらえた。
「それで、いったいどうしたんです?」
 定例の挨拶を終えたところで林田は直哉に質問した。
「事件のその後が気になったので。どうです、何か分かりましたか?」
「いえ、まだほとんど何も分かっていません」
「まだ村瀬さんは容疑者なのですか?」
「せっかく高田さんに証言してもらいましたが、残念ながらまだ疑念は晴れていませんね」
 直哉はその言葉に一瞬考え込むような仕草を見せたが、
「いったいどうしてですか?十時過ぎに家にいたことは僕の証言で証明されているでしょう?そして、村瀬さんの家から事件現場まではどう急いでも4,50分はかかる距離なんですよ?」
「ええ、それは分かっています」
「それならどうして?」
「いくつか気になることがあるんですよ」
 林田は痛々しげな表情で直哉を見つめながら話し出した。
「まず一つは、近所に住む主婦の目撃証言です。彼女の目撃した人物の特徴と、村瀬さんの特徴が酷似しているんです。身長といい、体格といいね」
「しかし!」
「分かっています。アリバイですよね」
「はい。それと、以前はそんな話、出ていなかったように思うんですが?」
 林田の落ち着いた態度を見て少し気を落ち着けた直哉は、思いついた疑問を口にした。
「以前とはまた別の目撃者が見つかったんですよ」
「え!?」
 それは直哉にとって初めて聞く話だった。
「今日、電話で知らせてくれたんですよ」
「しかし、何で今頃になってそんな証人が出てきたんですか?」
「その人は今まで旅行に行っていたんですよ。それが、先日帰宅して今日になって事件を知り、事件の日に不審な人物を目撃したと連絡してきてくれたんですよ」
「その人は今どこにいるんですか?」
 直哉は林田に相手の名前と住所を聞き、警察署を飛び出した。

 直哉が目的の家で呼び鈴を鳴らし、来訪の目的を告げると、相手はあっさりと扉を開けてくれた。
「あら、あなたが探偵さんなんですか?」
 扉を開けた女性は直哉の姿に驚いたように目を見張った。頭に描いていた探偵のイメージと、目の前の直哉の姿が全く重ならないのだろう。
「はい。探偵の高田直哉と申します。三波祥子さんですか?」
「そうです。あ、どうぞお入りください」
「お邪魔します」
 直哉は三波家のリビングに通され、勧められた椅子に腰を落ち着けた。
「あの、こちらにはお一人でお住まいなのですか?」
 独りで住むには少し広い家だな、そんなことを思いながら尋ねる。
「いえ、主人がいます。ただ、主人は今仕事にでていますので」
「あ、そうですか、そうですよね、ははは」
 直哉は乾いた笑い声をあげた。その日は平日の昼間なのだからそれで当然なのだ。そんなことも失念しているとは、少し落ち着かないと、自分にそう言い聞かせた。
「早速ですが、少しお話をお聞かせ願いたいのですが」
「はい、警察の方から話は聞いています。この間の殺人事件について調べているとか、正直に答えてくださいと言われていますので、お答えいたします」
 そうか林田さん、連絡しておいてくれたのか。道理で家の中にすんなりと通してくれたはずだ。捜査の中で何度も門前払いされてきた過去を思い出し、林田警部補の心遣いに感謝した。
「それで、どういったことを聞きたいのですか?」
「あの日、あなたが目撃したことを、聞かせてもらいたいんです。まず第一に、どうして今頃になって証言をしたのですか?」
「確かにそのことについては申し訳ないと思いますが、仕方なかったんです。というのも、一昨日まで私は夫と一緒に旅行に行っていたものですから」
「旅行ですか?」
 そう言えば警部補がそんなことを言っていたな、そんなことを思いだした。
「ええ、ちょっと箱根の方まで三泊四日の温泉旅行に行っていたので」
 三泊四日の旅行で二日前に帰ってきたということは、出発の日は丁度事件のあった日という事か。直哉は頭の中で素早く計算する。
「それでは、不審な人物を目撃した時のことについて、話していただけますか?」
「分かりました」
 三波は小さくうなずいた。
「あの日、私は夫と一緒に旅行に行く予定だったんです。箱根まで車で移動するつもりでした。朝九時には出ようと考えていたんですけど、細々としたことに手間取っている間に気が付いたら九時半近くになっていました。予定より少し遅れた事で私たちあわてていたんです。主人が車を急発進させると、目の前の丁字路から人が飛び出してきました。主人はあわててブレーキを踏みました。飛び出してきた人は、私たちはもちろん驚きましたがそれ以上に飛び出してきた人の方が驚いたでしょうね。ところが、その人は私たちの方には顔を向けないんです。文句の一つも言わないで、そのまま走り去っていきました。まるで、出来る限り姿を見られないようにしたいようでした」
「それで、その人物の特徴か何かありませんか?」
 三波が話す間、直哉は適度に相づちを打つだけだったが、ここで質問を挟んだ。
「そうですねえ、警察の方にも伝えたんですけど、男性だったのは間違いないと思います。それに、容疑者の女性の方も見ましたが、私たちが見た人物の体格は、彼女の体格よりももっと大柄でしたし」
「身長がどれぐらいだったかとか、もっと詳しいことは分かりませんか?」
「そうですね、身長は大体170センチぐらいだったと思います。服装は、中折れ帽を目深にかぶって、マフラーをしていました。それと、ロングコートに身を包んでいました。でもその時は、この季節ならそれほど不思議な服装ではないなと思ったんですけど、今思うと、顔を隠そうとしていたのかもしれません」
「ということは、相手の顔をはっきりと見たわけではないんですね?」
「ええ、それはそうですけど」
 三波は少し不満そうに答えた。目の前の人物に、あなたの証言はあまり価値がないですね、とでも暗に言われている気がしたのかもしれない。敏感にそのことを感じ取った直哉は、失礼なことを言いまして申し訳ありません、と頭を下げた。
「それで、その不審な人物を見た時間は正確には何時頃だったか、覚えていますか?」
「正確にですか?あれは、九時三十七分でした。間違いありません。車内の時計で確認しましたから」
「九時三十七分」
 直哉はその言葉をくり返すと、考え込んでしまった。
「どうかしましたか?」
「え、あ、いや、ちょっと変だなと思ったものですから」
 沈黙に耐えきれなくなったのか、三波が直哉の思考をうち破った。
「変、何が変なんですか?」
「その前にその犯人、その人物を犯人だと仮定しておきますが、その犯人はどちらの方向に向かいましたか?」
「どちら、ですか?そうですね、沢良木さんのお宅の方に向かっていたようですけど」
 三波は大して考える素振りも見せずに答える。多分警察でも同じ事を話しているのだろう。よどみなく答える様子は、何度か証言の練習していたのではないかと思わせるほどだった。
「つまり、三波さんは犯行を犯す前の犯人を見た、ということになりますね」
「ええ、多分」
 三波はやや困惑気味に答える。言明を避けたのは賢明な判断だろう。彼女に本当のところが分かるはずもないのだから。直哉も三波が言葉を濁したことには特に言及しなかった。
「あなたが犯人を見た場所から、沢良木さんのお宅まではどれくらいの距離でしたか?」
「それはもう目と鼻の先ですよ。その人物が向かった先にある最初の角を曲がった場所でしたから。そうですね、歩いても一分もかからないかもしれません」
「となるとますます不思議ですね」
「さっきから不思議だ、不思議だって、いったいどういう事ですか?」
「実は、三波さん以外にも犯人とおぼしき人物を目撃した方がいるんです。その方は沢良木さんのお宅から逃げていく人物を目撃したんですが」
 直哉は一度言葉を切ると、少しためらうようなそぶりを見せた。
「その時間というのが十時半なんです。もっと正確に言うと、十時二十九分ならしいんですが」
「それがどうかしましたか?」
 三波は直哉の言わんとすることがうまく飲み込めないらしく、不思議そうに首をかしげた。
「三波さんが犯人を目撃した時間が九時三十七分、そこから現場まで向かったとして、長く見積もっても九時四十分にはその場に着いていたはずです。そこから犯人が被害者を殺害するのに二十分かけたとしても十時。それから犯人は現場で三十分間も何をしていたのでしょう?」
 三波は少し考えたあと、「私には分かりません」と首を横に振った。
「それはそうですね」
 三波は不満げに直哉を眺めると、
「私の証言が信用できないと言いたいのですか?」
「いえ、そういうわけではありません。ただ疑問に思っただけです。犯行現場に三十分間、誰だって不思議に思いませんか?」

「ここなのか・・・?」
 直哉は水瀬朱美が住むマンションの前までやって来ると、我知らずそんなつぶやきを漏らした。そこは直哉が圧倒されるほど、高級感の漂うマンションだった。直哉は呼び出し口で朱美の部屋番号を入力すると、女性の声が答えた。
「こちら探偵の高田直哉といいます。沢良木さんが殺された事件を調べていまして、少しお話を伺いたいのですが」
「すみません、忙しいので」
 かなり迷惑そうな声がそう告げると、すぐに回線が切られた。直哉はもう一度、同じ部屋番号を入力する。今度も同じ女性が出たが、その声は不機嫌な気持ちを隠そうともしていなかった。
「すみません、少しで良いんです。あなたが沢良木さんの死体を発見したときの様子をお聞きしたらすぐに退散しますから」

 それから数分、直哉は朱美に頼み込み、何とか部屋へとあげてもらえた。
「ご無理を言って、申し訳ありません」
 直哉は扉を開けた朱美に向かって、そんな言葉をかけた。姿を現した女性は、長い髪もぼさぼさに、化粧もせず、人前に出ることを全く想定していないような姿だった。顔は化粧映えしそうではあったが、今はただ、疲れだけが浮かんでいるように感じた。
 朱美はただ、いえ、と言っただけで直哉を部屋の中に導いた。
「あの、引っ越しされるのですか?」
 その言葉を聞くと朱美は恐ろしい勢いで振り向き、直哉をにらみつけた。室内には段ボールが積み上げられ、タンスやテーブルといった家具がほとんど置かれていなかった。
「仕方ないでしょ」
 朱美はそれだけを言うと、フローリングの床にぽつんと置かれたクッションの上に腰を下ろした。
 直哉も直接フローリングの床に腰を下ろしたが、どう好意的に考えても歓迎されていない視線に遭い、居心地の悪さを感じた。
「それで、何をしに来たの?あたしは警察に話した以上のことは知らないわよ」
 いきなりの牽制の言葉にも負けず、直哉は質問を始める。
「まず、あなたと被害者の関係について、教えていただけませんか?」
「まあ、平たく言えばパトロンね」
「ということは、この部屋の家賃は」
「もちろん全額出してもらっていたわよ。あたしの給料だけで、こんな部屋に住めるはずないじゃない」
「そ、そうですか」
 つまり、沢良木が死んだことによって、この部屋に住めなくなったということか。となると、沢良木が死んだことによって、もっとも損をするのは彼女なのかもしれない。直哉がそんなことを考えていると、朱美はそれを裏付けるようなつぶやきを漏らした。
「そもそもあいつ、私のために店を作ってくれるとか言ってたのに、ぐずぐずしてるからこんな事に」
 その言葉は直哉に聞こえていないと思っているのか、それとも相当頭に来て直哉のことを気にする余裕も無くしているのかは分からないが、直哉に向けて放たれた言葉ではないようだった。直哉も素知らぬふりでその言葉を流し、別の質問を行う。
「あの日、あなたはもともと沢良木さんのお宅に伺う予定だったのですか?」
「あそこに行くのは毎週決まった曜日だから」
「犯人はそのことを知っていたと思いますか?」
「さあ、そんなことあたしは知らないわよ。それを調べるのがあなた達の仕事でしょ?」
「それはまあそうなんですが」
 こうまで邪険にされると直哉としても捜査しにくいことは否めなかった。しかし、それを打開する方法なども考えつかないため、仕方なしにそのまま質問を続ける。
「沢良木は一人暮らしですが、あの家にずっと独りで住んでいたんですか?」
「ええ、そうよ。ただ、通いのお手伝いさんが一人いるけどね」
「え、そうなんですか?」
「あんたそんなことも知らなかったの?そうよ。お手伝いさんの名前は岬昌江、近所に住んでいる寡婦よ。まあ、少なくとも五十歳は過ぎているでしょうけど、正確な年齢はしらないわ。まあ、あたしがあの家に行くときは大抵暇をもらっているようだけど」
「その人のことについて、もう少し詳しく教えてくれませんか?」
 朱美は面倒くさそうに左手を振ると、
「だから、あたしはあまり知らないの。知りたいんだったら直接聞けば?」
「そうですね、そうさせてもらいます」
 直哉は岬昌江とメモを取ると、ぱたんと手帳を閉じた。
「もう質問はおしまい?終わったんだったら帰ってくれないかな?明日にはここを出て行かないといけないのに、まだ荷造り終わってないのよ」
「最後に一つだけ、水瀬さんはあの日の午前九時半から十時半の間、何をしていましたか?」
「あの日は、十二時頃まで寝てたわ。これで聞きたいことは終わったんでしょ?さ、もう帰って」
「それでは失礼します」

 直哉は清水正義の家を訪ねた。ちょうど仕事に出るところだったらしく、玄関先で彼を捕まえた。
「すみません、清水正義さんでしょうか?」
「ええ、そうですが、あなたは?」
「私は高田直哉といいまして、私立探偵をしています」
「私立探偵?」
 清水はその言葉に一瞬ひるんだようだったが、黒縁の眼鏡に右手をやり、
「君が探偵?」
と、ロマンスグレーの髪をオールバックにした男はまじまじと直哉を観察した。
「申し訳ないのですが、今は忙しいんですが」
「あまりお時間は取らせませんから」
 清水は腕時計を少し眺めたあと、
「それなら三十分だけで、よろしいですか?」
 直哉と清水は清水の案内で近所の喫茶店に入り、四人掛けのテーブル席に向かい合って座った。
「聞きたいことというのはなんでしょう?」
 清水は落ち着いた声で直哉に話しかけた。
「沢良木さんが殺された日の午前九時半から十時半の間、あなたはどこにいましたか?」
「あの日は、前の晩夜勤でしたので、家に帰ってから昼近くまで部屋で寝ていました。ただ、それを証明してくれるのは私の家族だけですけどね。確か、家族の証言というのは参考にしかならないんでしたよね?」
「ええ」
 直哉は首を縦に振る。
「たとえ家族をかばっても、法律的には罪に問われないんです。ですから、逆に家族の証言を信用するわけにはいかないと言うことなのだと思います。おかしな話ですけどね」
「おかしなことはありませんよ。仕方のない話です」
「それでは、沢良木さんのことについて、お聞かせ願えませんか?」
「沢良木さん、ですか・・・」
 その時、清水は初めて感情らしきものを直哉に見せたような気がした。その名前を口にするとき、彼の声は少し震えている様に感じた。
「私は、彼に直接お金を借りたわけではないのです。彼から借金をしたのは、名前は控えますが、私の高校の頃からの親友でした。まじめ一本槍だった彼は新しい事業を興すと言って、私や、他の友人から金をかき集めましたが、少し足りなかった分を金融業者から借用したのです。私は金融業者からお金を借りることだけは止めたのですが、少額だからということで、押し切られました。それでも不安だった私は彼に、事業を始めたらすぐに借金は返済すると約束させました。その金融業者のオーナーが沢良木です。しかし、事業というのはうまくいくとは限りません。私の友人も失敗をしまして、ついには借金の返済も出来なくなりました。それでも何とか返済しようと努力はしていたようですが、ついには姿をくらませてしまいました。そして、連帯保証人だった私の元に、取り立てが来るようになったのです。その時の金額は、友人が借りた額からは比べものにならないくらいに増えていました。それでも、私は何とかお金を返していきました。しかし、少しでも返済が滞ると、私の勤め先にまで取り立て屋が現れるのです。そして、いつしかそれが社内で問題になりだしました。社内業務にも影響が出るほどになっていったのです。私は責任を取って、会社をやめることにしました」
 清水はここまで一息にしゃべるとのどが渇いたのか、目の前のコップに口を付けた。
「しかし、私は仕事を辞めたことに対しては恨んでなんていませんよ。それは私が選んだことですから。それよりも、三十年来の友人を失ったことの方がショックでした」
 直哉は言葉を全て失い、ただ、清水の言葉を聞くだけしかできなかった。清水はその後、家や車などを売って借金を完済し、今は古くからの友人のつてで新しい会社に勤めているとのことだった。
「申し訳ありませんが、そろそろ時間ですので」
 直哉が腕時計を見ると、確かに約束の三十分は目前に迫っていた。
「お忙しいところ、申し訳ありませんでした」
 直哉の言葉に柔和な笑顔で応えると、清水はしっかりとした足取りで駅の方へと向かって歩き出した。
 その後ろ姿を眺めながら直哉は、彼が犯人だとはとても思えないな。と考えていた。

 直哉は再び事件現場へと戻ってきていた。もちろん、沢良木家の手伝いである岬昌江に話を聞くためだ。しばらく沢良木の家のあたりを調べたところ、意外とあっさり岬の家を見つけることが出来た。
 インターホンを鳴らし、事情を説明する。岬は、分かりました、と近くの喫茶店を待ち合わせ場所に指定した。

 直哉が先に喫茶店でコーヒーをすすっていると、人を捜すように入ってくる、五十歳後半くらいと思われる女性が視界に入ってきた。
「岬さんですか?」
 入り口できょろきょろとしている女性に向かい、立ち上がって声をかけた。
「もしかして、あなたが・・・?」
「探偵の高田直哉です」
 直哉は深々と頭を下げる。そして、自分の席へと驚きを隠せないでいる女性を導いた。
「ごめんなさいねえ、探偵さんがこんなに若いとは思ってもいなかったものだから」
「よく言われます。早速ですが、いくつかお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「はい」
 女性は上品に頷いて見せた。その容姿は、若い頃はかなり美人だったのではないかと思わせるに十分だった。
「まず、あなたの事についてお聞かせいただいても良いですか?」
「私は岬昌江と申します。以前まで、沢良木さんのお宅のお手伝いをさせていただいておりました」
「どうして、沢良木さんのお宅で働くようになったのですか?」
 直哉は不意に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「沢良木さんは私の主人の友人でしたので」
 その関連で、との言葉を匂わせながら、岬は恥ずかしそうにうつむいた。直哉はそれ以上その話題を続けることをやめた。岬がどうもその話題をいやがっているように感じたからだった。
「沢良木さんのお宅で働くようになってどれくらい経つのですか?」
「雇っていただいたのが主人が亡くなってすぐでしたから、四年くらいです」
「失礼な質問でした」
 直哉は頭を下げる。岬は、いいえ、と笑い、「もう昔のことですから」と続けた。
「次は、沢良木さんのことについて、お聞かせ願いたいのですが」
 直哉は再度謝罪の言葉を述べてから質問した。
「そうですね、死んだ方のことをあまり悪く言うのは心苦しいのですが、あまり評判は、その・・・」
「あまり評判の良い方ではなかった?」
「率直に言いますと、その通りです」
 岬は困った表情を浮かべ、うなずいた。
「たくさんの方に恨まれるような事をなさっていたそうです。家の主人が生きている頃にもよく申しておりました。沢良木さんは、いつ殺されてもおかしくないような人生を送っていると」
 直哉はその言葉に沈黙した。そのような人生を送って、沢良木は普段どう思っていたんだろう?辛くはなかったんだろうか?悲しくなかったんだろうか?それでも平気だったのか?そう考え出すと、底なし沼にはまってしまったかのように思考が一歩も進まなくなってしまった。直哉は頭を二度ほど振ってその考えを振り払う。
「失礼ですが、事件のあったときはどちらに?」
「あの日は私、お休みの日でして、その時は家の方で足りないものなどを買い出しに出かけてました」
「それは証明できますか?」
「それでしたら、警察の方に買い物をしたときのレシートを証拠として提出しました」
「そうですか」
 警察が彼女を容疑者として数えていないということは、そのレシートを元にしてアリバイが成立したんだな、直哉はそう納得するとその話を打ち切った。
「事件現場で、何か変わったことなどはありませんでしたか。例えば何かが無くなっていたとか」
「無くなっていたものですか?」
「いえ、別に無くなっている、ということにはこだわらなくても結構です。事件が起こる前と起きた後とで、現場の様子に何か違っている箇所があればお教え願いたいのですが、何か気づいたことはありませんか?」
「急にそう言われましても・・・そう言えば」
「何かありますか」
 直哉は勢い込んで体を乗り出した。
「い、いえ、何かが変わっていたような気はするのですが、ちょっと思い出せなくて」
「もしかしたら、すごく重要なことかもしれません。何とか思い出せませんか?」
「さっきからずっと考えてはいるんですが、申し訳ありません、思い出せないんです」
「そうですか。分かりました。もし思い出せたら僕に連絡をください」
 直哉はそう言いながら、手帳のページを一枚破ると、そこに電話番号を記入した。
「分かりました」
 岬は紙片を受け取りながら答えた。
 
 
 

next