悲しい犯罪者 後編
 

七章 証明
 直哉は事件の重要参考人であり、孤児院の頃からの知り合いでもある、大浦充の店へと向かった。店の扉には準備中の札がかけられていたが、店内に人の動く気配を感じたので扉を押し開いた。
「すみません、今は準備中で」
 店の奥から男の声が答える。
「こんにちは、充さん」
「え?あ、直哉か。どうした?」
 充が厨房から少し顔を出した。
「ちょっとお話を伺いに来ました。少しで良いので、お時間をいただけませんか?」
「なんだその堅苦しい言葉は?まあいいや、入れよ。少し待っててくれよ、もう準備も終わるから」
「すみません、お忙しいところを」
「気にするなよ」

「で、いったいどうしたんだ?」
 直哉と充は店のテーブルの一つに席を決めると、向かい合って座った。
「あまり、気分のいい話ではないかもしれませんが」
「ちょっと待った、その前にその話し方は何とかならないのか?気持ち悪くて仕方ない」
「すみません。じゃあ聞きます。あ、その前に、薫さんは?」
「薫は今、買い物に行ってるよ」
「そうですか、それは良かった」
「ん、薫に聞かれるとまずい話なのか?」
「ええ、まあ、その」
 直哉は少し言葉を濁す。
「今日は、殺人事件の捜査できたんです」
 その言葉に、充は迷惑そうに片眉を跳ね上げた。しかし、むげに追い返すことも出来ないため、腕を胸の前で組むと、視線を直哉から離し窓の外に送った。
「何の話か、分かりますよね?」
「ああ」
「率直に聞きます。あの日、九時半から十時半の間、何をしていました?」
「その時間なら、開店の準備をしていたよ」
 直哉は店先に書かれていた店の営業時間を思い出す。確か、午前十一時から午後三時、午後五時から午後十時と書かれていた。
「開店準備はいつも奥さんと一緒に?」
「ああ」
「準備にはどれくらい時間をかけるんですか?」
「昨夜の内に大抵済ませているからな、そんなに時間はかけないさ。そうだな、大体三十分くらいか」
「三十分・・・」
 直哉はその言葉を口の中で転がす。
 最後に犯人らしき人物が目撃されたのは午前十時半頃、現場からここまで二十分程度の距離だから、素直に考えるなら、充さんに犯行は無理だということになる。でも、うがった見方をすると、開店準備を全て薫さんに任せて沢良木の家に向かい、沢良木を殺したあとで、店に戻って来たとも考えられる。アリバイ成立とはならないな。
「どうした、直哉?もう何も聞くことがないんだったら、俺はそろそろ店の準備に戻りたいんだが」
「え?あ、そうですね。分かりました、失礼させてもらいます。また今度寄らせてもらいます」
「今度はもう少し楽しい話題でたのむよ」
「はい」

「失礼します」
「おう、入れ」
 直哉は恵美の家を訪れていた。
 恵美の住むアパートは安普請だったのだろう、部屋と部屋とをつなぐ木造の廊下を歩く時、一歩足を踏み出すたびにぎしぎしと音を立て、扉はガタピシと鳴った。
「ま、どこでも良いから座れよ。お茶で良いか?」
 腰を下ろした直哉に向かい、台所と思われる場所から声をかけた。
「いえ、お茶は結構です」
「そうか?」
 恵美はそのまま何も持たず、直哉の前へ戻ると、適当な場所にあぐらをかいて座った。
「で、今日は何のようだ?」
「少し、聞きたいことがあって」
「聞きたいこと、いったいなんだ?」
 恵美は眉間にしわを寄せ直哉の口元を見つめた。
「事件のことについて、話してもらえませんか?」
「事件というと、沢良木が殺されたあれか?」
 直哉は首を縦に振る。その仕草を見て深くため息を吐いた恵美は、
「どうしてそんなことを聞きに来たんだ?」
「はっきり言います。恵美さんは今、警察に疑われています」
 恵美はどんな表情をすればいいのか悩んだのか、少し困ったように微笑むと、
「いったいどういうことだ?」
「警察は、恵美さんのアリバイに疑念を持っているんです。ですから、僕は恵美さんの無実を証明したいと思っているんです」
「俺がまだ疑われているというのは本当なのか?」
 直哉が無言でうなずく姿を見てやっと事態を理解できたのか、恵美はその日、初めて引き締めた表情を見せた。
「いったいどうして・・・」
 恵美はうつむくと、ぶつぶつとそんな言葉をくり返した。
「一つ思ったんですけど、僕が恵美さんに電話した時、恵美さんは誰と電話していたんですか?」
「え、何のことだ?」
 不意の言葉に恵美は顔を上げた。
「僕は事件のあった日、恵美さんに言われたとおりここに電話をかけたんです。それなのに話し中だった事を思い出したんですよ」
「ああ、あの時のことか、あれは拾った携帯の持ち主に連絡していたんだよ」
「拾った携帯?」
 恵美は事件の数日前、電車の座席に忘れられている携帯電話を拾った。そして、本当は警察に届けるべき所をついうっかりと家に持ち帰ってしまい、そのままで置いておいたところ、事件の三日前に携帯の持ち主から、その携帯に直接電話があったのだ、ということだった。そして、携帯を元の持ち主に返すために、携帯の持ち主に連絡を取っていた時間がちょうどその時間だったということなのだ。
「あの時は、こちらから連絡してくれといっておきながら悪かったな」
「いえ、それは別に構わないんですけど、その携帯の持ち主の連絡先とかは分かりませんか?」
「連絡先か?ちょっと待てよ・・・すまん、名前しか思い出せないが、それでも良いか?」
「名前さえ分かれば、ある程度は何とかなると思います。ですから、その人の名前を教えてください」
「確か、橘あゆみと言う名前だったが・・・」

「あ、あゆみちゃん、ちょっとこれから時間ある?」
「これから?いったいどうして?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだ。僕が戻るまで事務所にいてくれる?」
「いいけど、いったいどうしたの?」
 いぶかしげに問いかけるあゆみに、戻ってから説明するからと電話を切った。
「恵美さんも時間は大丈夫ですか?」
「どういうことだ?」
 隣で呆気にとられたように直哉の行動を見守っていた恵美は、突然呼びかけられて驚きの表情のままで問いかけた。
「橘あゆみという名前に、一人心当たりがあるんです。しかも、その子は数日前に携帯をどこかに忘れていたから」
「本当か?」
 恵美は相当驚いたように目を白黒させると、信じられない、と小さくつぶやいた。

 直哉が空木探偵事務所に戻ると、あゆみは約束通り直哉の帰りを待っていた。時計の針はすでに七時を回っていた。
「ごめんね、あゆみちゃん」
「ううん、それは別に良いけど、いったいどうしたの?」
「あゆみちゃんに、ちょっと会ってもらいたい人がいるんだ」
「会ってもらいたい人?いったい誰?」
「僕が孤児院にいる頃に世話になった村瀬恵美さん」
 あゆみはその言葉に怪訝そうな表情を浮かべたが、まあいいけど、と少し冷たく答えた。
 直哉が恵美を呼びに行く間あゆみは、直哉がいったい何を考え、恵美という人物をここに連れてきたのかを考えた。しかし、どう考えてもその理由に思い当たるところはなく、どうしようもない不安感に襲われた。そして、直哉が事務所内に連れてきた人物の姿を見た時、あゆみは我知らず、え!?、と素っ頓狂な声を上げていた。
「あの、あなたが村瀬恵美さんですか?」
 あゆみがおそるおそる問いかけると、その人物は首を縦に振った。それでもあゆみは、しばらくの間呆けたように恵美を見ていたが、ふと我に返ると、
「その節はどうもありがとうございました」
と、深く頭を下げた。そして、恵美には聞こえないような小声で直哉に、
「恵美さんって女性じゃなかったの?」と問いかけた。
「え?僕そんなこと言ったっけ?」
「ううん、言ってないけど・・・」
 二人がそんな会話を交わしている間、当の本人は物珍しそうに事務所内を眺め回していた。
「何かありましたか?」
 直哉が問いかけると恵美は首を横に振り、
「探偵事務所と言っても、普通のオフィスとそう大差ないんだなと思ってな」
「そりゃそうですよ。あ、どうぞ、こちらに座ってください」
 直哉が恵美にソファを勧める。その向かいに腰を下ろそうとした直哉をあゆみが止めた。そして、直哉を部屋の隅に引っ張っていくと再度、
「いったいどういうこと?」と詰め寄った。
「あゆみちゃん、恵美さんに会ったことあるよね?」
「うん、あるけど。それより、いったいどういう事か説明してよ。これじゃ状況がさっぱり分からないじゃない」
 直哉が、このような状況になったいきさつをかいつまんで説明すると、あゆみも顔を引き締め、
「つまり、その時のことを証言すればいいわけね?」
「電話で話した相手が本当に恵美さんだったかどうかを確認してもらいたいんだよ」
 あゆみは分かったという風にうなづいてみせた。

八章 疑惑
「ふう」
 直哉は恵美を出口まで送り出すと、安心したように息を吐き出し、あゆみを見やった。そして、ありがとう、と素直な気持ちを口にした。
「私は別に何もしていないわよ。それより、事件の方はどうだったの?」
「うん、それなんだけど」
 直哉はその日分かったことをあゆみに話した。
「つまり、何も分かってないのね」
 あゆみの言葉に直哉は黙ってうなずくしかなかった。二人はソファに向かい合って腰を下ろしたが、どちらも言葉を発する様子もない。二人が二人ともそれぞれが事件について考えている様子だった。その沈黙を先に破ったのはあゆみだった。
「隣に住んでいる主婦の見た、現場から逃げていく人物と、三波さんの乗る車の前に飛び出してきた人物がもしも同一人物で、やっぱり沢良木殺害の犯人だったとしたら、犯人はどうして九時四十分から十時三十分の間、犯行現場にとどまっていたのかしら?現場は荒らされた様子もなかったのよね?」
「僕もそれは疑問に思っていたんだ。普通に考えてそんなことをする理由はないからね。逆に言うと、その時に犯人が何をしていたのかが分かれば、犯人が誰か分かるかもしれない、何となくそんな気がするんだ」
「そうね」
 あゆみにも特に異論は無いようだった。
「あ、もうこんな時間だ。あゆみちゃん、送っていこうか?」
 時計を見ると時刻はすでに八時を回っている。恵美が事務所をでたのが七時なのでそれからすでに一時間以上過ぎていることになる。そのことに気づいた時、直哉のおなかが勢いよく空腹を訴えた。よく考えたら夕食がまだだったな、そんなことを考えた直哉はあゆみを食事に誘う事にした。

「ねえ、いったいどこに行くの?」
 いっこうに行き先を告げない直哉に、軽い不信感を覚えつつあゆみはたずねた。
「もうすぐだから」
 直哉は細い路地を曲がりながら答えた。あゆみは軽くため息を吐くと後を追いかけた。そして、そのまま歩くこと数分、前方にかわいい門構えの建物が見えてきた。
「あそこが目的地だよ」
 小さな子供が喜びそうだな、それがあゆみの感じたその店の第一印象だった。その次に、直哉がそのような店を知っていることに軽い驚きを覚えた。そんな風に思われているとも気づかずに、直哉は店の扉を押し開いた。あわててあゆみも後を追う。店先には優しい文字で、『イングルサイド』と書かれていた。
「いらっしゃいませ」
 若い女性の声が出迎える。店内はほどほどに客で埋まり、奥まった場所にあるにしては結構な客の入りだった。
「あれ、直哉さん?」
「薫さん、こんばんは」
「いらっしゃい。今度はお客?それとも捜査?」
 昼間に一度、事件のことで充に話を聞きに来たことを聞いていたのだろう、薫は他の客に聞こえないように声を潜めると、そんなことを聞いてきた。
「今度は客です」
 直哉は笑顔を浮かべて答える。
「それじゃ改めて、いらっしゃい。それで、そちらの方は?」
 そこで初めてあゆみの存在に気づいたかのように、薫は直哉に意味ありげな視線を送った。
「僕の同僚で橘あゆみちゃん」
 直哉は薫にそう紹介した。あゆみはその横で軽く頭を下げたが、その表情には疑問符が浮かんでいた。それに気づいてか今度はあゆみに、
「こちらは、僕の知り合いの奥さんで大浦薫さん。今は旦那さんと二人でこの店を経営しているんだよ」
 それを聞いて、あゆみは再度お辞儀をした。
「立ち話も何だからどうぞこちらへ」
 薫は二人を席に案内すると、今度は水とメニューを持って来た。あゆみと直哉は薫に助けてもらいながら注文する品を決める。メニューに載っている品名をみてもどのような料理かほとんど見当が付かなかったのだ。そして、二人はやっとの事で決めた品名を薫に告げた。薫が店の奥に消えてからしばらくの間その店や薫の印象について二人で話し合っていると、充と薫が二人分の料理を持って現れた。
「充さんこんばんは」
「いらっしゃい。ふーん、この子が直哉の彼女か」
 充がテーブルの上に料理を並べながらあゆみを眺める。
「結構かわいい子じゃないか」
「彼女じゃありませんよ」
「分かってるよ、直哉にこんなにかわいい彼女がいるわけ無いものな」
 あわてて否定する直哉に対し、充は声を立てて笑った。
 あゆみが困ったようにうつむいていると薫が、
「ごめんなさいね」とテーブルの上に残りの料理を並べながら言葉をかけた。
 あゆみは薫の心遣いに感謝の言葉を述べた後、
「あの、コーヒーを頼んだ覚えは無いんですけど」
 彼女が並べたコーヒーに目を落とし、おずおずとそんな言葉を口にした。
「あ、それは私たちからのサービスです」
「いつも直哉がお世話になっているようですから」
「そんな、悪いですよ」
「気にしなくても良いですよ。それに、もう作ってしまったものですから、貰っていただかないと無駄になるだけですし」
 少しの逡巡の後、
「そうですか、分かりました。ありがとうございます」
 無駄になると言われると、あゆみも素直に引き下がるしかなかった。
「そうそう、人の好意は素直に受けておくものよ」
 薫がいたずらっぽい笑みをあゆみに投げかける。
「ありがとうございます」
「ところで充さん、厨房に戻らなくても良いんですか?」
「何だ、直哉、俺とは話したくないのか?そんな邪険にしなくても良いだろう」
「そんな、別に邪険にしているわけじゃ」
 直哉の困る様子を見て充は笑顔を浮かべると、
「冗談だよ。じゃ、仕事に戻るわ」
 そして、あゆみにはごゆっくりという言葉を残し、二人は店の奥へと戻っていった。
「いいなあ」
 二人の後ろ姿を見送りながらあゆみがそんなつぶやきを漏らす。
「何が?」
「うん、何だか家族って感じじゃない」
「そうかな?」
 確かに二人の仲は良いけど、直哉がそんなことを考えていると、次のあゆみの言葉に驚かされた。
「うん、直哉君が羨ましい」
「え、僕が?」
「うん。直哉君にも家族がいたんだなって・・・。あ、ごめんなさい」
 ひどいことを言ってしまったと思ったのか、あゆみはあわてて謝ると、そのまま黙り込んでしまった。
 家族、確かに僕にとってあの家で一緒に生活していたみんなは家族みたいなものだ。言われるまで意識はしてこなかったけど、意識しないからこそ家族なんだろう。改めて言葉に出されると面はゆい気もしたが、悪い気はしなかった。直哉は我知らず口元がゆるんでいた。しかし、そこであゆみの両親がすでに他界していることを思い出し、あわてて口元を引き締める。
「あゆみちゃんには、僕たちがいるじゃない」
 直哉が何を言いだしたのか理解できなかったのか、あゆみが目を白黒させていると、
「いや、僕はあゆみちゃんや先生のことも家族のように思っているって事だよ」
 あゆみに意味が通じていないことに気づいた直哉があわてて言葉を付け足すと、
「なーんだ、てっきり愛の告白だと思ったのに」
 突然そんな言葉が二人の間に落ちてきた。直哉が驚いて声のした方向に顔を向けると、そこにはしれっとした表情を浮かべた磯川雅美と、困った表情で雅美の口をふさいでいる海藤健作の姿があった。
「健作、雅美、こんな所でどうしたんだ?」
 あきれた表情で問いかける直哉に、健作は照れたような笑みを浮かべるだけだった。
「私と健作は塾の帰りよ。それよりも直哉さんこそどうしたの?それにそちらの人は?もしかして恋人?今はデート中?」
「そんないっぺんに聞かれても困るよ。それに彼女は恋人じゃなくて同僚、だよ」
「なーんだ、つまんない。・・・あ、ということはこちらの方も探偵なの?うわあ、すっごい」
 そんな言葉を述べながら雅美はあゆみの姿をのぞき見る。
「こら、雅美。初対面の方に失礼だろ。すみません、本当に礼儀知らずなやつで」
 健作は雅美の頭を軽くはたくと、愛想の良い笑顔をあゆみに向ける。その隣で雅美が口をとがらせていた。
「いえ、いいんです。あ、紹介が遅れましたね。私は橘あゆみです。直哉君と同じ空木探偵事務所で探偵助手をやっています。それでお二人は?」
「あ、すみません。僕は海藤健作。で、こっちでふぐのようにふくれているのが磯川雅美です」
「ふぐで悪かったわね」
 雅美はますます頬をふくらませると、すねたようにそっぽを向いた。しかしすぐに気を取り直すと、あゆみに「隣に座っても良いですか?」などと聞いたりしていた。女心と秋の空を地でいくような雅美に健作もいつも苦労していた。
 健作と雅美が二人の隣に腰を下ろすとすぐに充がやってきた。そして開口一番、
「ようこそこんな所へ」と、直哉をにらみつけた。
「充さん、聞いてたの?」
 直哉が驚きを隠せずに問いかけると充は、ああ。とうなずき、
「悪かったな、こんな所で」と続けた。
「あれは言葉の文というやつで、別にこの店がどうとか言うわけじゃあ・・・」
 直哉がしどろもどろに言い訳すると、充は仏頂面をすぐに崩し、
「冗談だよ。それよりお前ら注文はいつもので良いのか?」
 お前らと呼ばれた二人がそろって、はい、と答えると、充は分かったと厨房へと引き返した。
「いつものと言うことは、この店には良く来てるのか?」
 直哉がたずねると、
「たまにね」と健作が答え、雅美があゆみに、
「あゆみさんは、この店に来たことは?」
「今日が初めてよ、直哉君に連れられて。ところで、この店の名前って・・・」
 などと切り出し、その結果二人はある小説について話しだした。二人の会話に付いていけない直哉と健作はぽかんとした様子で二人の会話を聞いていた。
「どれくらいの頻度でこの店には来てるんだ?」
「えーと、週に一、二回かな。いつも塾の帰りによるんだよ。充さんが色々とサービスしてくれてね、いつも悪いとは思うんだけど、つい甘えちゃうんだよねえ」
「充さんは面倒見が良かったからなあ」
 直哉もしみじみとつぶやくと、健作も、そうそう、と相づちを打った。
「この間だって、私たちのためにお弁当を作ってくれたしね」
「そうそう。あれはおいしかった。充さん、また作ってくれないかな」
 どこが悪いと思っているんだ?と言う言葉を飲み込み、直哉はサービスとして出されたコーヒーを口元に運んだ。これも甘えているうちにはいるのかな?と思っている間にも、健作と雅美は充が作ったという弁当の話題で盛り上がっていた。
「ところであれっていつだっけ?」
 健作が雅美に問いかけると、雅美は少し考えた後に、
「確か六日前じゃなかった?その日は一時間目が数学でその次が理科だった記憶があるから」
「ああ、そうだったね。あの時は驚いたよね。実験室に移動しようとしているところに突然充さんが現れたから」
「そうそう。そのせいで次の授業遅れちゃったのよね。まあ、充さんには感謝しているけど」
 二人の話を聞いているうちに、直哉の顔色がみるみる悪くなっていった。雅美と健作はそんな直哉の様子には気づかず、二人でその弁当の感想などを話し続けていたが、あゆみは怪訝な表情で、そんな直哉の変わり様を眺めていた。
 その後、直哉は最後まで上の空のままで店を出ると、二人と店先で別れた。そして、当初の予定通りあゆみを家の前まで送っていったが、その道すがらもほとんど言葉を発さなかった。
「ありがとう、直哉君」
 あゆみは自分の家の前に立つと、直哉に微笑みかけた。
 直哉はただ、うん、と答えると、そのままきびすを返す。
「あ、ちょっと待って」
 あゆみはそんな直哉を呼び止めると、やや強引に家の中へと引っ張り込んだ。
「な、なに?どうしたの?」
 あゆみの突然の行動に直哉は驚きを隠せず問いかける。
「お茶でも飲んでいって」
 あゆみは硬い表情でそう告げると、一人でさっさと靴を脱いだ。直哉も仕方なしにそれに倣うと、リビングへと向かった。
「いったいどうしたの?」
 直哉はあゆみの運んできた麦茶を一口口元に運ぶと、そう問いかけた。
「聞きたいのは私の方よ。いったいどうしたの。何か気づいたんでしょ?」
「何のこと、僕には分からないよ」
「目をそらさないで」
 あゆみは顔を背けようとする直哉の顔を両手で捕え、無理矢理に正面を向かせると、その瞳をのぞきこんだ。
「ねえ、何があったの?」
 直哉は目線を下に向け、少し逡巡した後、あゆみの視線を正面から受け止めた。それでも数秒ためらった後、口を開いたが、それは質問の形式を取っていた。。
「二人が話していた、充さんが作ったという弁当のことなんだけど、あの日は事件の日だよね?」
 あゆみは少し考えた後にこくりと頷く。
「それがどうしたの?」
「僕が今日充さんにアリバイを聞いた時、充さんはその日は店にずっといたと証言したんだよ」
「それで?」
 あゆみは直哉が何を言おうとしているのかよく分からないのか、怪訝な表情を浮かべて問いかける。
「あの二人はA高校に通っているんだけど、そこから事件の現場までは片道、どう急いでも三十分はかかると思うんだ。確認したわけではないけどね。それに、二人の話から、充さんが学校に現れたのは一時間目と二時間目の間、つまり学校によって時間は多少違うかもしれないけど、少なくとも十時頃だということは分かるよね」
「そうね」
 あゆみは少しとまどいの表情を浮かべながら同意する。直哉が何を言おうとしているのか、おぼろげにではあるが分かってきたのかもしれない。
「どうして充さんは、僕がアリバイを聞いた時に、そのことを話してくれなかったんだろう?確かにアリバイが成立するかどうかは分からないけど、その時間何をしていたかと聞けば当然思い出される話だし、話してくれる事だと思うんだよ」
「確かにそうね」
 あゆみはあごに片手を当てて考え込むような仕草を見せた。
「つまり、誰かをかばうためにわざと何も言わなかったと言いたいの?」
 直哉は何も答えない。あゆみはそれには構わず自分の考えを話し続ける。
「そうやってかばおうとする人物も、その行動によってかばうことが出来る人物も、一人しかいないわよね。それは」
 そして二人の口から同時に同じ名前が発せられた。
「薫さん」と。

九章 聴取
 次の日から、二人は共同でこの事件の捜査に当たることになった。あゆみは、雅美と健作の通う高校から犯行現場までどれくらいの時間がかかるのかを調べ、さらに、一時間目の終わる時間を調べる事になった。もちろん、その日に大浦充の姿を見たものがいないかも聞き込みの対象ではあった。
 一方直哉は、大浦薫が沢良木を殺害する動機があるかどうか、また、現場付近で薫らしき人物を見かけた人物はいなかったか、そういったことを調べる事にした。

「今日は何のようです?」
「ちょっと調べてもらいたいことがあるんです」
 直哉はまず警察署の林田警部補をたずねた。
「調べて欲しいこと?それはいったいなんです?」
 林田警部補は徹夜明けなのか、眠そうに目をしょぼつかせながら直哉と対峙していた。
「大浦薫という人物に、沢良木を恨む動機があったかどうか、調べてもらいたいんです」
「誰ですって?」
 林田警部補は目の間を右手で抑えながら問い返す。
「大浦薫です。大浦充の妻の」
「ああ、彼女ですか。一度、大浦さんに話を聞きに行った時に会いました。彼女がどうかしたのですか?」
「すみません、今はちょっと話せないんです」
 警部補はその答えに不服そうに、ふん、と鼻を鳴らしたが、直哉の表情に気を変える様子のないことを見て取ると、もう一度鼻を鳴らした後、
「分かりました。調べておきますよ」
「ありがとうございます」
「別に君のためにやるわけじゃないですよ。私だって、事件の解決を望んでいますから。少しでも解決に近づけるのなら、どんな小さな手がかりでもしらみつぶしに調べる、それが私たちの仕事ですし」
「それでも、ありがとうございます」
 直哉は深く頭を下げた。

「こんにちは」
 あゆみはA高校の校門で雅美を見かけ、声をかけた。
「あれ、あゆみさん?こんな所でどうしたんですか」
「ちょっと近くまで来たものだから、もしかしたら会えるかなと思って。迷惑だった?」
 あゆみはにっこりとほほえむ。雅美もほほえみ返すと、
「いいえ、そんなことはありません。あ、そうだ健作も呼びますね。あいつ、昨日でいっぺんにあゆみさんのファンになったみたいで」
「そんな」
 雅美はあわてて否定しようとするあゆみを押しとどめるように指を振り、
「あいつ、昨日の帰り道はずっとあゆみさんの話ばかりしていたんですよ」
「あ、あの・・・」
「ちょっと待っててください、今健作を呼びますから」
 雅美はそう言うとポケットから携帯電話を取り出し、健作に電話をかけた。
 それから数分して健作は、校門にいる二人の元に走ってやってきた。
「こんにちは」
 急いで息を整えると、健作はあゆみに挨拶をした。
「こんにちは。ごめんなさいね、突然呼んだりして」
「はは、全然大丈夫ですよ」
「せっかく、あゆみさんに会えるチャンスだもんね」
 少し冷たい響きを含んだ声と共に、少しあきれたような視線を健作に送る。
「何言ってるんだよ」
「あら、私、何か間違ったこと言った?」
「ぐっ」
 健作は言葉に詰まり、雅美を軽くにらみつけた。
「ふふふ」
 突然、あゆみがこらえきれなかったかのような笑い声をあげた。雅美と健作の二人は呆気にとられたようにそんなあゆみの様子を眺めた。
「ご、ごめんなさい、ふ、二人とも仲が良いのね」
 あゆみは笑いの合間に無理矢理そんな言葉を差し挟んだ。
「そうですかぁ?」
 健作が不服そうに口をとがらせる。その隣で雅美は健作の言葉に同意するかのようにコクコクとうなづいて見せた。
「何だか二人が羨ましいな。私も高校の頃、仲の良い子がいたのよ」
「へえ、そうなんですか。その人は男性ですか?女性ですか?」
「もちろん女性よ。その子とは高校一年の時に初めて会ったんだけど、何故かすぐに仲良くなれたの」
 あゆみは雅美に笑顔を向けながら話を続ける。
「その人とは今も付き合いがあるんですか?」
 健作が問いかける。あゆみはゆっくりと首を横に振ると、
「その子は高校一年の頃に殺されたのよ」
 あゆみはそれが何でもないことのように口にした。しかし、二人はその答えにかなりのショックを受けたようだった。言葉を発することも出来ず、あゆみの顔を呆然と眺めるしかできなかった。そんな二人に気づいたのかあゆみは、「ごめんなさいね」と謝ると、二人に優しい微笑みを向けた。そして、
「二人はもう食事は終わったの?」とたずねた。
 二人はそろってフルフルと首を横に振る。
「そう、それなら一緒に食事に行かない?」
 あゆみは二人ににっこりと優しい笑顔を向けた。

 あゆみは健作と雅美の二人に案内され、近所の喫茶店に入っていった。
「ごめんなさいね。何か予定があったんじゃないの?」
「いいえ、そんなものはありませんよ」
 健作が答える。その横で雅美はそんな健作をにらみつけていたが、その当人はどこ吹く風とそんな視線を無視していた。そんな二人の様子から、あゆみは二人には何か予定が有ったのではないかと思った。
「二人は今何歳なの?」
「僕は十八歳で雅美は十七歳です。学年は同じなんですけどね」
「それじゃあ二人とも、もうすぐ受験なのね。大変ね」
「まあ、たいていの人が通る道ですから」
 雅美はどこか冷めたような口調で答えた。その口調はあきらめを感じさせたが、あゆみにはどうも、彼女は自分の感情を隠し、あきらめているように見せようとしているかのように感じられた。そのように感じることがかっこいいとでも思っているのかもしれない。若い頃にはよくある勘違いだ。あゆみはそこまで思ってふと、自分も十分若いじゃないかと気が付き、自分の考えに心の中で苦笑した。
 その時、ちょうど三人の頼んだ料理が運ばれてきたため、会話は少し中断した。
「それにしても高校生か、何だか懐かしいな」
 あゆみは二人の皿があらかた空になった頃に話し出した。
「ええ、そうですか?あゆみさんだって高校を卒業してまだそう何年も経っていないでしょう?」
「ま、そうなんだけどね。でも、何故かすぐに懐かしむようになるのよ。二人とも卒業したら分かるわよ」
 二人は釈然としない表情のままあゆみの言葉を聞いていた。二人にはあゆみの言っている意味が理解できなかったからだ。
「ところで、授業は何時から始まるの?」
「九時からです」
 雅美は突然の話題の変化にもなんなく答える。
「へえ、開始は結構遅いのね。私が言っていた高校は八時四十五分から授業が始まったんだけど」
「へえ、そうなんですか?」
「ええ、中学の頃は九時から開始だったんだけどね。それに授業時間も中学時代の四十五分から五十分になって、高校に入学した当初は慣れるのに苦労した覚えがあるわ」
「私たちの高校は四十五分授業よね?」
 雅美が健作に同意を求めるように横を向いた。健作はちょうど皿の上に残っていた料理を口の中に放り込んだところらしく、ただうなずいただけだった。
「ホントに?何だか羨ましいな。あ、でも、授業時間は短いという事よね?どっちが良いのか難しいところね」
「そりゃ、短い方が良いに決まっていますよ。なあ、雅美」
「うーん、どうかしら?」
 健作は雅美のその答えに心底驚いたようだった。大きく目を見張ると、珍しいものでも見るかのようにまじまじと雅美の顔を眺めた。
「あ、そろそろ午後の授業が始まるわよ」
 雅美はそんな健作の視線を受け流すと腕時計に目を落としてそう告げた。
「え?あ、本当だ。じゃあ、橘さん僕たちは学校に戻ります」
 健作の言葉と共に二人が立ち上がると、あゆみもそれに従った。そして、遠慮する二人を押しとどめ、先に立って三人分の食事代を払うと、店の前で二人と別れた。
「さて、今度は・・・」
 二人が学校の中に入っていくのを眺めた後、あゆみは一人、そんなつぶやきを漏らした。

「何か分かった?」
 現場付近で直哉とあゆみは出会った。
 直哉は、まだ何も分かっていない、と言う気持ちを込めて首を横に振る。
「そっちは?」
「うん、学校からここまでどう急いでも三十分はかかるわね。あ、それと、事件のあった日、大浦さんが学校に現れたのは九時四十五分から九時五十五分の間らしいわ。時間的な余裕もないし普通に考えたら、彼には犯行は無理でしょうね」
「そうだろうね。薫さんの動機の方は今、林田さんに調べてもらっているよ」
 直哉は何かに心をとられているらしい。ほとんど上の空であゆみに告げる。
「警部補はそのことについて何か言っていた?」
「いや、理由を聞いては来たけれど、今は言えないと答えたら、何も聞かずに調べてくれると言ってくれたよ」
「そう。それじゃ、私はもう少し聞き込みに回ってみるから」
 あゆみは彼女の腕時計に目を落として告げた。
「うん、ありがとう」
「それで直哉君はどうするの?」
 あゆみは別れ際にそんな質問を投げかけてきた。

「こんにちは」
 直哉が沢良木の家の前から中を覗いていると、背後から声をかけられた。
「あ、岬さん。こんにちは」
 そこには買い物帰りらしく、片手にビニール袋をぶら下げた岬が立っていた。
「捜査中ですか?」
「ええ。岬さんは買い物の帰りのようですね」
「はい、探偵さんも大変ですね」
「いえ、これが仕事ですから。それより、何か思い出したことはありませんか?」
「あ、そういえば、何かをお話ししようと思っていたんですけど・・・」
「え?それはこの間言っていた、現場の様子で変わっていたことですか?」
 直哉は身を乗り出すようにしてたずねる。岬は、そうなんですけど、と申し訳なさそうに答え、整った眉根を寄せて見せた。
「今度思い出したら、いつでも結構ですのですぐに僕の電話に連絡をください。番号はお渡ししていましたよね?」
 その言葉を聞いたとたん、岬は驚いたような表情を浮かべた。
「どうかしましたか?」
「思い出しました」
 直哉が問いかけると、岬は少し恥ずかしそうに答えた。

十章 真相
「それで、岬さんは何を思い出したの?」
 その日の夕方、事務所に戻った直哉は、そこで先に帰ってきていたあゆみと調査結果を報告しあっていた。
「それが、現場の様子でいつもと違う箇所があったらしいんだ」
「確かにそういう話だったわね」
 あゆみは小さくうなずく。
「その違っている箇所というのが、電話らしいんだ」
「電話?」
「そう。現場に置いてあった電話を誰かが使った形跡があるらしいんだ」
「そんなことがどうして分かるの?」
 あゆみはその事を信じていないのではなく、純粋な疑問として問いかけた。
「何でも、電話にはいつもカバーを掛けていたらしいんだけど、それの向きがいつもと逆になっていたらしいんだ」
「カバーの向きが?」
 あゆみはオウム返しに問い返す。直哉は軽くうなずいてみせると、あゆみは、でも、と言葉を続ける。
「被害者が生前に使ったんじゃないの?事件とは何も関係ない可能性もあると思うんだけど」
「それが、被害者の沢良木は結構几帳面な性格だったらしいんだ。だから、カバーを反対に掛けるようなことは今まで絶対になかったらしい」
 直哉は即座にあゆみの言葉を否定する。同じ疑問を岬にぶつけていたのだろう。
「つまり犯人がその電話を使った可能性が高いのね?あ、でも、第一発見者が警察に通報する時に使ったという可能性は?」
「第一発見者の水瀬朱美は自分の携帯電話から警察に連絡している。それはないよ」
「そう、じゃ、やっぱり犯人が電話を使用したのね。でも、どうして?」
「分からない。でも、それが分かれば事件が解ける、そんな気がするんだ」
 あゆみが、そうね、と答えた時、卓上の電話が大きくベルを鳴らした。
「あ、私が出るわ」
 あゆみは直哉に告げると受話器を持ち上げた。
「はい、空木探偵事務所。あ、林田警部補ですか。高田に変わりましょうか?・・・はい、・・・あ、そうですか」
 それきりあゆみは何度か相づちを打つだけで林田警部補の話に耳を傾けた。そして最後に、
「はい、分かりました。伝えておきます。はい、それでは失礼します」
 その言葉と共に受話器を置いたあゆみは、直哉に向かってその体勢のまま、
「薫さんの身辺から沢良木殺害の動機らしきものは浮かんでこなかったらしいわ。それと、薫さんはその日の十時頃のアリバイがあるらしいの。その時間、店にかかって来た電話の対応をしていたそうよ」
「それじゃあ」
「偶然かかってきた電話の応対をしたわけだから、薫さんが犯人とは考えにくいでしょうね」
「そうか、良かった」
 そんな安堵のため息を吐いた直哉の耳にあゆみの、
「それにしてもこの事件には電話がよく登場してくるわね」とつぶやきいた声が入ってきた。
 直哉はその言葉に一度、そうだね、と答えたが、次の瞬間、何かに気が付いたように目を見開くと、どこを見ているのか分からないうつろな表情のまま、空中に視線を固定した。そしてそのままの姿勢で「電話、電話」と口の中でくり返した。

 あゆみは最初こそ直哉の突然の変化に驚いたが、何かに気づいたらしい直哉の思考の邪魔をしないよう、隣の部屋に移動すると、やることもなかったので夕食の準備などを始めた。しかし、頭の中では直哉が何に気が付いたのかを考えるため、さっきまでの直哉とのやりとりをトレースしていた。
 それから三十分も経っただろうか?簡単な料理を作り終えたあゆみは隣の部屋に再度移動した。まだ直哉がその姿勢のままでいるのでは?と思っていたあゆみだが、直哉は自分の携帯電話を取り出すと、その液晶画面を食い入るように見つめていた。
「どうしたの?」
 その様子にただならぬものを感じたあゆみは驚いてかけた。
「あ、あゆみちゃん、ちょうど良かった。ちょっとあゆみちゃんの携帯を見せて」
「どうして?」
 あゆみは訳が分からないといった様子のまま、それでも素直に携帯を直哉に手渡した。
「ちょっと履歴を見せてもらっても良い?」
「え?あ、うん、別に良いけど」
 あゆみは、特に問題になるようなところにかけた覚えもないし。と心の中で付け足した。
 直哉とあゆみは同タイプの携帯を使用しているため操作方法には特に悩むことはなかった。直哉は簡単に発信履歴を呼び出すと、小さくうなり声をあげた。
 その時、再び事務所内の電話が音を鳴らした。今度は直哉が受話器を取り上げると、その表情が緊張でこわばったように見えた。

十一章 墓前
「さっきからいったいどうしたんだ?難しい顔をして」
 恵美はさっきから自分のうしろを黙って付いてくる直哉に振り向き様に問いかけた。それに対し、直哉は上の空で返事を返す。恵美は不満げな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わず、歩を進めた。
「おい、もうすぐだぞ」
 その言葉に直哉が辺りを見回すと、いつの間にか寺の境内に入っていた。目の前には数十段に渡る石段が続き、恵美はその一段目に足をかけていた。
「ほら行くぞ」
 恵美はその姿勢のまま声をかける。直哉がうなずくと、恵美は階段を上り始めた。

「ほら、ここだ」
 恵美は一つの墓の前で立ち止まると直哉に告げた。そこには他の墓に比べるとやや小さな、それでも十分立派な墓が立っていた。
 二人は水をまき、雑草を抜き、花を添える。
 そして直哉がまず、線香をあげると墓前で手を合わした。その後で恵美は何も言わず、直哉の姿を見つめていた。
 数分もそうしていただろうか?直哉は立ち上がる。そして振り向くと、
「ありがとう」
「なんだ急に?まあいいや。それじゃ、俺の番だな」
 しかし、直哉はその場を動く気配を見せない。恵美は怪訝な表情で直哉を見る。
「恵美さんに、ばあちゃんと話させるわけにはいかない」
「は?何言ってるんだ」
「ばあちゃんが悲しむから、恵美さんに報告させるわけにはいかない」
 恵美はその言葉に不快感を隠そうともせず、直哉をにらみつける。
「どういうことだ?」
「沢良木さんを殺したのは、恵美さん、あなたですね?」
「いくらお前でも、言って良い冗談と悪い冗談があるぞ」
「冗談でこんな事は言えません」
 直哉は真剣な表情のままで答える。恵美は小さくため息を吐くと、
「どういう事か、説明してくれるか?」
「警察が最終的に絞った容疑者は恵美さん、薫さん、水瀬さん、清水さんの四人です。このうち、アリバイが全くなかったのは薫さんと水瀬さん清水さんの三人で恵美さんにはアリバイらしきものがありました」
「そうだ。それに、俺のアリバイを証言してくれたのはお前だろう?」
「ええ。僕も最初はそのアリバイを信じていました。しかし、警察はそうではなかった。だから、事件を捜査しようと思ったんです」
「それがどうして、さっきの結論になるんだ?」
 恵美は口元にうっすらと笑みを浮かべているように見えた。
「僕は、恵美さんの無実ではなく、事件の真相を調査していたからです」
「ふん、ご立派なことだね。それで、俺のアリバイはどうなったんだ?」
「残念ながら、アリバイ工作の真相は分かりました」
「ほう、どういう事だ?」
「最初、この事件について疑問に思ったことが一つありました」
 いつの間にか親しい口調は影を潜め、やや冷たく感じられる声を響かせながら、直哉は話を続ける。
「隣人や近所の方の目撃証言から考えると、犯人とおぼしき人物が現場に一時間近くいたことです。特に現場に細工をした様子もなかったのにです。その理由は最後まで謎でした。ある証言を聞くまでは」
「ある証言?」
 恵美はその言葉に興味を惹かれたらしくくり返す。
「沢良木さんのお宅で家政婦をしていた方の証言です。その方が言うには、犯行現場の電話が使われた形跡があったそうです」
 恵美の眉が一瞬ぴくりと動いた。
「犯人が、死体の横で電話をかけている姿、想像しにくい話です。しかし、犯人はそれを行った。行わないといけなかったんです。それが、アリバイ工作だったんですよ。これ以上話す必要がありますか?」
「最後まで説明してくれないか?残念ながら、俺には分からないからな」
「犯人は、つまり恵美さんは十時少し前、携帯電話から恵美さんの家に電話をかけたまま、呼び出し音を鳴らし続けた。近所の方に音を聞かれるのはまずいから呼び出し音は切っていたんでしょうね。そして、沢良木の家の電話から事務所にいるあゆみちゃんに電話をしたんです。もちろん、携帯電話を返すという話の打ち合わせのためにです。さて、その前日に、僕は恵美さんに十時頃に電話をかけるように言われていました。僕は素直にそれに従い、十時に恵美さんの家に電話をかけた。しかし話し中です。てっきり僕は恵美さんが誰かと電話で話しているんだと思いました。その後の調査で電話の相手があゆみちゃんだと言うことも突き止めました。しかし、実際は違ったんです。実際には話し中でなくても呼び出し音が鳴っている間は、後から電話をかけた方には話し中の音が聞こえるんです。そして、あゆみちゃんとの電話を終えた後、沢良木の家の電話から僕の携帯に電話をした。分かってしまうとバカバカしいトリックでしたよ。あまりにもバカバカしすぎて笑うことすら出来ませんでした」
「確かに子供だましだな。で、それを俺が行ったという証拠はあるのか?第一、俺は携帯電話なんて持っていないんだぞ?」
「事件の時に使った携帯電話はあゆみちゃんの携帯電話です。恵美さんはあの時、あゆみちゃんの携帯電話を拾っていました。あなたは携帯電話を持ったことがないので知らないかもしれませんが、携帯電話には発信履歴という機能が付いているんですよ。それを調べれば何時何分、どこに電話をしたのか分かるようになっています」
「発信履歴?」恵美は一瞬ひるんだようにその言葉をくり返した。
「ああ、なるほど、あの時試しにかけた事で疑われたわけだ」
 ほんの少しの間をあけた後、恵美はそうかそうか、とつぶやきながらそんな言葉を口にした。
「試しにかけた?」
「ああ、そうだよ。俺は携帯を持っていないだろ?だから一度、どこかに試しにかけてみたくなったんだよ。しかし、誰かにかけて迷惑をかけるのも悪いと思ったから、家にかけてみたんだ。この気持ち、分かるだろ?」
「それじゃ、どうして僕の携帯電話にかけてきた、恵美さんの家の番号は非通知になっていたんですか?」
「あれか?」恵美は直哉をまっすぐに見つめる。「ちょっと設定する時に間違えてな、標準で非通知になるようになってしまったんだよ」
「なら、試してみましょう。そうですね、恵美さんの家に今から行きましょう」
 直哉はそのような言い訳を予想していたのか、即座に切り返す。
「いや、それじゃ不便だと思ってついこの間設定をなおしたところなんだよ」
「それなら通話会社の方に設定を変更したという記録が残っています。どうやったって言い逃れは出来ませんよ」
「どうしようもないのか?」
「もう逃げ道はありません」
 直哉は冷たく言い放つ。
「そうか、すまなかったな、迷惑をかけて」恵美は神妙な面持ちで答える。
「それで、その話は警察には?」
「まだしていません。だから恵美さん、自首してください」
「自首、か・・・。そうだな、犯した罪は償わないとな」
 恵美はぽつりぽつりとつぶやくように答えた。
「ところで、一つ質問しても良いか?」
「何ですか?」
「どうして俺が犯人だと分かった?いや、どうして俺を疑ったんだ?お前は俺の無実を信じてくれていたと思っていたんだが」
「最初は、恵美さんが犯人だなんて全く考えていませんでした。恵美さんが犯人ではないかと考えたのは最後の最後になってからです。その理由は・・・」
 直哉は一瞬言い淀む。言うべきではないと考えたのかもしれない。しかし、すぐに思い直したのか再び語り始める。
「恵美さんを疑うきっかけは、充さんでした」
「充さん?」
 恵美は訳が分からないとでも言うように問い返す。
「充さんに事件の時のアリバイがなかったのは知ってましたか?」
「ああ、らしいな。その為に充さんまで疑われてしまって、申し訳ないことをしたと思っているよ」
 しかし直哉は首を横に振る。その様子に恵美は怪訝そうな表情を浮かべる。
「本当は、充さんにはアリバイがあったんだよ」
「え?」
「でも、充さんはそのアリバイを主張しようとはしなかった。どうしてだと思いますか?」
 直哉の口から思ってもいなかった言葉を聞かされ、さらに追い打ちをかけるように問いかけられた恵美は、分からない、と首を横に振った。
「それは、誰かをかばうためですよ」
 恵美はその言葉にショックを受けたのだろう、今までの落ち着き払った態度は影を潜め、目を大きく見開いて直哉の口元を凝視していた。
「どういう事だ?」
 そしてそのままの姿勢で問い返す。しかし、直哉はその質問には取り合わずに言葉を続けた。
「誰かの罪をかばうためには完璧なアリバイは障害にしかならない。その為に充さんは自分のアリバイを主張しようとはしなかったんですよ」直哉はいったん言葉を切ると恵美に睨むような視線を投げた。
「最初、充さんがかばおうとしたのは薫さんかと思いました。しかし、薫さんにはアリバイがありました。それに、彼女には沢良木さんを殺すような理由も有りませんでした」
「だから、どういう事だ?」
 恵美は再度同じセリフをくり返す。
「単刀直入に言います。充さんがかばおうとしたのはあなたです。いえ、僕たちと言った方が正しいかもしれません」
「どういう事だ?」
 恵美は同じ言葉を三度、しかし今度は別の意味を込めて投げかけた。
「充さんは、僕や恵美さんや孤児院のみんなの内に犯人がいると考えたんです。その理由は僕には分かりません。多分、現場の様子か何かに特定の人にしか分からないメッセージでもあったんでしょう。・・・そうか、あのコスモスですね?あのコスモスが・・・、そうか、すっかり忘れていた」
「あのコスモスは、あいつのせいで咲くことの無かった花なんだ。やつに育てる邪魔をされてな。ばあちゃんは最後までその花のことが心残りだったんだ」
 直哉の言葉に応えるように恵美が語り出す。
「あれは、その時に余って使わなかった種から育てたコスモスなんだ。健作達に頼んで高校の花壇で育ててもらっていたんだよ。しかし、あいつが俺たちをかばおうとするとはな」
 心底意外だというようにつぶやいた後、恵美は嬉しそうに口元をほころばせた。
「何が嬉しいんですか?」
 その様子を見た直哉が恵美に向けて、無理矢理に感情を押し殺したような声で問いかけた。その声にはどこか、背筋を凍らせるような鬼気迫るものがあった。恵美は驚いたように顔を上げる。
「あなたは、大浦さん達の家庭を壊してしまうかもしれなかったんですよ?そのことに気づいていますか?充さんがあなたをかばおうとしたと言うことは、あなたの代わりに捕まっても構わないと考えたということなんですよ?その時、残された薫さんはどうなると思うんですか?たとえ薫さんが充さんの無実を信じたとしても、世間はそうは思ってくれません。そして世間は、犯罪者の家族には・・・、分かっているんですか?」
「俺は、わざとではないにしても、充と薫さんをそんな目に会わせるところだったのか?」
 これ以上口を開くと叫びだしてしまうとでも感じたのか、直哉はうなずいて見せた。
「すまない」
 恵美は先日聞かされた直哉の両親のことを思い出していた。そしてそれだけを口にすると、それ以上何も言えなくなってしまった。それから二人は数分は黙っていただろう、先に口を開いたのは恵美だった。
「すまなかったな、今から警察に行くよ」
「一人で、大丈夫ですか?」
 それは、直哉がその日初めて恵美にかけた親しげな言葉だったかもしれない。恵美はふっと、笑みをこぼすと、
「俺も子供じゃないんだ。一人で行けるさ。それに、俺が一人で始めたことだ。幕引きも一人でやるさ」
 恵美はきびすを返すとしっかりとした足取りで立ち去る。
「また、みんなで会いましょう!絶対にみんな待っていますから!」
 小さくなっていく背中に向け、直哉は叫ぶ。男は振り向きもせず、右手を軽く挙げてその声に応えた。

終章
「今日は仕事は良いんですか?」
 僕は隣で暇そうに立っている充さんにたずねた。
「こんな日くらい休んでも良いだろ。なあ、薫?」
「そうよ。時間をある程度自由に出来るのが自営業の良いところだしね。でも、二人は学校を休んじゃって良いの?」
 薫さんは充さんの言葉に大げさにうなずいて見せると、大口をあけてあくびをしている雅美に話を振った。
「大学の授業なんて一日くらい休んでもどうって事無いですよ。まあ、健作の場合は一日くらい休みが増えても変わらないって所でしょうけど」
 雅美はあわててあくびを引っ込めると、一団から少し離れた場所に立っている健作に意地悪そうな視線を投げながら応える。
「いらないことは言わないで良いんだよ、雅美は。それにしても他のみんなも来たかっただろうね」
「仕方ないさ、そこが宮仕えの辛い所ってね」
「充さん、そのセリフ、ちょっとおじさん臭いですよ」
「悪かったな、どうせ俺はおじさんだよ。それより、夜はみんな集まれるんだろ、健作」
 雅美の言葉に大げさに不満な表情を見せながら、充さんはゆっくりと僕たちの方に近づいてきていた健作に問いかける。
「連絡は入れておきました。みんな絶対に来るって言ってましたよ」
「ま、当然だな。直哉、もちろんお前も来るだろ?あ、それと、せっかくだから彼女も連れて来いよ。あの橘っていう子。あの子もまるっきり無関係ってわけでもないんだからさ」
 充さんは僕も当然来るものだと決めつけているらしかった。もちろん、僕としても行かないと言うつもりはない。ただ、最終的にあの人の罪を暴いたのは自分だという事実が、どうも気になって仕方なかった。僕がそんな思いなのに、あゆみちゃんを連れて行っても良いのだろうか?その判断は彼女に任せることにしよう。つい卑怯な道を選んでしまうのは、僕の心が不安定になっているからだろうか?
「そうですね。話しておきます」
「それで、あいつは何時頃出てくるんだ?」
 充さんは僕の言葉なんて聞いていなかったかのように話題を転じる。
「もうすぐ出てくると思いますよ。今がちょうど予定の時間です」
 僕はさっきから何度も時計を確認していたが、充さんの問いかけに再度自分の腕時計を見、その文字盤を今度は充さんの眼前に差し出しながら答える。
「そうか」
 僕たち五人の視線は自然と小さな扉に集まる。その扉は注目が集まるのを待っていたかのようなタイミングでゆっくりと開かれていく。健作と雅美は扉に急ぎ足で駆け寄り、充さんはその場から動かず、扉の向こうから姿を現した人物に大声で呼びかけると両手を頭の上で大きく振っていた。その横で薫さんは主人の子供っぽい行いに半分あきれながらも笑みを浮かべていた。
 扉から姿を現した人物はきょろきょろと辺りを見回し、僕の姿を認めると、いつもと変わらない笑顔を向けてくれた。僕は一度大きく息を吸い込んだあと、恵美さんに微笑みかえした。
 みんなの背後には青空が広がっている。空は他の色を全て拒絶するかのように青く澄み渡っていた。しかしこのような美しい空の下でも、悲しい犯罪者は生まれているのだろう。それは仕方のないことだ。ならば今この時、無惨にも命を奪われたかもしれない人々の為に僕は冥福を祈ろう。そして悲しい犯罪者に少しでも救いが訪れることを願おう。しかし、僕はそれ以上に彼らの家族が救われることを期待したい。人の心に悪しき部分があるというのなら、人の心には善なる部分も必ずあるはずなのだから。
 
 

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