友の絵
 

 絵が好きだった。
 こんな表現を使うと、ある人は絵を見ることが好きだと捉えるだろうし、また別の人は絵を描くことが好きだと受け止める。
 おそらく後者は少数派だろう。けれど、桂木良子が「絵が好きだった」と敢えて過去形で言うならば、それは後者を意味した。絵を見ることなら彼女は今も好きだ。描く方についても未だ時折の嗜みにしてはいるのだが、熱心さは失って久しい。
 高校時代の中頃までなら良子は絵を描くことが何よりいちばん好きだった。さらに言えば、彼女は上手くもあった。小学校や中学校にはたいがい学年に一人「絵の天才」みたいなのがいるものだ。普段は取り立てて取り柄もなく目立たないタイプだけれど、図工や美術の授業で絵を描かせると異常に上手いような、先生が黒板の前でみんなに「こいつは上手いぞ」とその子が描いた絵を貼り出すような。良子はそういう子どもだった。
 三十もすぎた今になってみると、果たして自分はいつ頃まで本当に絵が好きだったのだろうと、良子はやや自嘲気味のまなざしで過去を振り返ることもある。絵を描くことそのものが好きだったのではなく、誉められることが単に嬉しかったのではないかと思うのだ。事実、そうした側面もあったろう。高校時代に何度か小さなコンクールに出展して、その度にごく小さな賞しか取れない自分に、良子は自身が真の意味では天才でもなんでもないことを知った。自分程度の「ちょっと絵がうまい子ども」は他にいくらでもいることを知って、美大への進学を諦めごく一般的な進学先を模索しはじめた頃から絵を描くことに対する熱意は急速に薄れたように思う。
 だが動機はどうあれ、高校時代のいつ頃かまでは絵を描くことに熱中できたのも確かだった。まだ自分の限界を知らない頃は毎日放課後になると美術室へ足繁く通ってキャンバスやスケッチブックと向かい合っていた。夏休みになれば地方のコンクールに出品するため、集中的に部活へ顔を出して作品を仕上げた。野球部の金属バットが弾を打ち返す音と、ぬるい風が吹き込むたびに舞い上がった油彩用の油や絵の具のにおいが窓の外に広がる青空といっしょに今でもハッキリと思い出せるくらいだ。
 良子は確かに、絵が好きだったのだ。
 高校時代についてなら、部活の顧問でもあった美術教師が優しい、いい先生で、何より付き合いやすい人だった。そのことも良子が部活にコンスタントに通えた大きな理由だったろう。
 当時、良子が通っていた高校は新しい校長が若くして就任したところで、この校長は良子も含めて多くの女生徒が憧れるくらい文句なしにステキな先生だったが、仮にそうした教師が部活動の顧問だったら部室に顔を出すのにもある種の緊張感があったかもしれない。
 その点、冗談にも気軽に付き合ってくれるような親しみやすい人物が顧問だったのは本当に幸運なことだったと彼女は思う。面倒見のいい人で、学年が上がれば進路相談にも乗ってもらった。多少の無理を聞いてもらったこともある。
 そう、一度だけ、桂木良子はその教師に無理を聞いてもらったことがあった。
 卒業式も近い二月の末、彼女は自分の描いた絵を学校のどこかに飾ってくれるよう顧問に頼み込んだのだ。
 

「しのぶの肖像画を描きたいんです」
 良子はその時、そんな風に顧問に持ちかけた。高校で過ごした三年という時間を思えば卒業式も間近と呼んでいい時期だった。良子は進学先をすでに決めていて、もう授業もなく、時間だけがあった。
「作品が出来上がったら、学校のどこかに飾ってもらえないかと思うんですけど……」
 控え目に彼女は頼んだ。この三年間で顧問の人となりは充分にわかっていたが、それでも良子にとっては勇気のいる申し出だった。
「"しのぶ"というと……」少し考えるようにした顧問は、やがて目を丸くした。「もしかして、行方不明になった浅川しのぶかね」
 良子は頷いた。
「しのぶが今、どこでどうしているのかわかりませんけど、彼女を知ってる友達はみんなもうすぐ卒業しちゃいますから……。変な噂だけ学校に残って、まるで死んじゃったみたいに言われて、きっと一人で寂しい想いをしてると思うんです。だから……」
「友達だったのかね」
「この学校に入って初めてできた友達なんです」
「そりゃ知らんかった」
「いなくなるちょっと前から彼女変わっちゃって、その頃はあんまり付き合いがなかったので……」
 でも、しのぶは友達なんですと良子は繰り返した。
 おそるおそるだった良子に対して顧問はそうぢゃったんか……、と小さく呟くとすぐに膝を叩いた。
「よし、わかった! きみの好きにしなさい。学校もあの事件についてはちと神経質になっておったようぢゃから他の教室や廊下には飾れんかもしれんが、美術室に美術部員の絵を記念に飾るのに文句は言わせん」
 まるで打てば響くように返事は返ってきた。良子が予想していたより、ずっと望ましい内容だった。
「あ、ありがとうございます!」
 良子は勢いよく頭を下げた。
 

 良子はそれからさっそく準備に取りかかった。
 しのぶのために描くのだし、最低でも美術室には飾られることになる絵だった。下手なものにはできない。久しぶりに絵に対する熱意を取り戻して、彼女は下準備から入念に進めた。
 まず初めはしのぶが写っている写真を探した。できるだけ明るく笑っているしのぶが良いとは、このアイディアを思いついたときから考えていたことだった。とはいえ、不意打ちしたのでもない限りこのくらいの年頃の女の子がカメラの前で大口を開けて笑ったりはしないもので、ひと口に明るい笑顔と言ってもそんな写真はなかなかない。良子自身が持っている以外に他の友達を当たったりもして、なんとか一枚きれいに微笑んでいるしのぶの写真を見つけた。彼女がまだ金田五郎と出逢う前に撮ったものだった。
 写真が決まると、美術室へ向かうようになった。部活を引退してから半年あまり。久々に毎日のように通う部室だった。放課後になれば美術室には二年生や一年生の部員がわずかながら集まって、良子が卒業してしまうのを寂しがってくれた。そんな中で良子はスケッチブックに何枚もの習作を4Bの鉛筆で描き起こした。
「良子先輩が人物画って珍しいですね」
「やっぱりそう思った?」
 ある日、後輩にそう言われて良子は苦笑した。しのぶを描くために新たに用意した薄手のスケッチブックは、すでに半分以上が到底満足できない下書きで消費されていた。筆をとること自体が久しぶりだし手こずるだろうとは思っていたが、予想以上にさんざんな有り様だった。
「先輩っていったら、風景画が得意な印象だったから……」
「うん。苦手だからっていやがらずに人物画ももう少し勉強しておけばよかったって、後悔してるわ。人物デッサンなんて基本なのにね」
「写真みたいな平面から起こすのって難しいですよ」
 後輩の慰めにありがとうを言って、良子は写真を取り上げた。
「せめてもう少し大きく写ってればよかったんだけど……」
「描いてるの、このひとですよね?」
 写真を覗き込んだ後輩が複数人写っている中できちんとしのぶを指さしてくれたので、良子はそう、と頷いた。
「このひと誰ですか?」
「──どうして私が今になって苦手な肖像を描こうとしているか気になるんでしょ?」
「ばれました?」
「ばれるっていうより、変なことをしているように見えるだろうなと自分で思うから」
 良子は少し笑ってから、真顔に戻った。
「私の友達なの。同じ学年でね……名前だけはあなたも聞いたことあると思うわ」
「三年生ですよね。有名な人なんですか?」
「ある意味……ね。浅川しのぶって、聞いたことあるでしょう?」
「えっ!」後輩は自分の上げた大声に驚いたように、口を押さえた。「え、浅川しのぶ……さんって、うしろの少女の……?」
「やっぱり知ってた」
「あ……」
 後輩は口を覆ったまま写真を見つめた。彼女の頭の位置はつい先ほどより5cmほど後ろにさがっている。しのぶが行方不明になってからわずかな間に校内を席巻した怪談の威力を、良子はこうしてしばしば目にしてきた。
「私たちの学年が卒業するとしのぶを覚えてる人がいなくなるじゃない? きっと、寂しいと思うから、彼女の絵を描いて飾ってもらうことにしたの」
「飾ってもらうって──」青ざめた顔が不安げに美術室を見回した。「まさか……と思いますけど」
「美術室に飾ってもらうことになると思う」
「……」
 後輩がそのとき浮かべた表情は、いやだなあとか怖いなあという気持ちを如実に示していた。それでも口に出さなかったのは、しのぶが良子の友人であると聞いて気を遣ったからだろう。
「私ね」後輩の顔を見て良子は言った。「幽霊の絵を描こうとしてるわけじゃないのよ。しのぶが死んだなんて信じてないの」
「しのぶさんって、行方不明なんでしたっけ」
「ええ。それなのに死んだと決めつけられて、幽霊にまでされちゃって」
「はい」
「そういうわけだから。私の描く絵はあんまり怖がらないであげてくれると嬉しいわ」
「そう、ですね。……そうしてみます」
「まあ、それより先にまず仕上げないといけないんだけどね」
 良子はそう言って笑いかけた。
 

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