往者
 

「誰かと思ったら、橘さんじゃない」
 突然背後から声をかけられて、橘あゆみは半ば跳び上がった。
 夕暮れを控えた古い校舎にひと気はなかった。近づいてくる足音はなく、そんな中で声を掛けられたら誰であれ驚くのではないだろうか。あゆみは思わず振り返った。
「葉山先生」
 自分を呼んだ相手を認め、あゆみは思わず安堵の息を漏らした。
 廊下の先に立っていたのは、なんのことはない、この高校の女教師だった。長い廊下をあゆみの方へと歩いてくる。女教師の踵の低いパンプスはほとんど足音を立てない。
「あら、びっくりさせちゃった? ごめんなさいね」
 葉山久子はいつもどおり教師とは思えぬ軽い口調で詫びて、あゆみから少し離れた位置で立ち止まった。足を止めた女教師は、その視線をあゆみとあゆみの足下へ向ける。
「お花を供えに来たの?」葉山が尋ねた。
「はい。あの、すみません」
 あゆみは頭を下げた。足下には、今あゆみ自身が生けたばかりの花が供えられている。
 旧い校舎の廊下の、その行き止まりだった。あゆみの背後の壁には半年近く前まで大きな鏡があったが、それが壊された今はベニヤでふさがれて放置されている。ここには仏壇も何も有りはしないが、おそらくそれ以上に死者とゆかりの深い場所だった。
 今では本来、この校舎に生徒の立ち入りは許可されてはいない。
「あの、今日はしのぶさんの月命日だったので……」
「ああ、そうか。十日だもんね」
 あゆみが小さく言うと、女教師は校則違反をとがめる様子もなく言った。葉山はあゆみの背後にあるベニヤに目を向けたまま、また少し歩み寄る。あゆみが女教師の意図を察して場所を譲ると、葉山は花の前にかがんでしごく短い間、手を合わせた。
 三月の夕方だった。夕焼けの色で、廊下も白い花も赤っぽく染まっている。しゃがんだ葉山のねずみ色のスーツも夕日の中で赤みがかって見えた。この鏡が割れた後、派手な色のスーツを着る葉山の姿をあゆみは見ていない。女教師は靴音の高いヒールも履かなくなった。
 葉山は手を下ろしたあともかがんだままで、ふと口を開いた。
「ここに花を供えられる月命日は、今日が最後か」
 はい、とあゆみは頷いた。この校舎は解体されることが決定していた。とうの昔に使われなくなって、元より老朽化が指摘されていた建物だ。取り壊しに反対していたのは前任の校長で、反対の理由は今となっては明らかだった。ここで起きた事件の調査も終わった今、高校は一刻も早くこの忌まわしい建物を取り壊したいに違いない。
 解体工事は春休みのうちに行われる予定で、次に浅川しのぶの月命日を迎える頃には、もうこの場所は存在していないはずだった。
「葉山先生はどうしてこちらに?」
 あゆみは尋ねた。
「窓に人影が見えたから、誰だろうと思って」
 葉山は簡単に答える。あゆみはその答えを少し意外に思った。
「葉山先生は怖くないんですか? ここに来る……いらっしゃるのが」
 尋ねると葉山は少し眼を丸くしてあゆみを見上げた。
「だって、もう怖がる理由なんてないでしょ?」
「そうですか?」さらに驚いてあゆみは思わず尋ね返した。「立ち入り禁止じゃなくても、ここに来るのは嫌だって人が多いと思っていました」
 なにせ、ここは十五年にわたって人一人の遺体が隠されていた場所なのだ。それだけでも十分なのに、その遺体の主が学校中を席巻していた怪談のモデルなのだから、気分の良いはずはない。よく分からない人影などが見えようものなら一目散に逃げ出す女子生徒だっているだろう。
「ああ、まあ、そうか。ワタシだってあんまり近寄りたくはないけどね」でも別に怖くはないわよ、と葉山は言った。「だって、うしろの少女なんて、もういないでしょ」
「もういない、ですか?」
「いないわよ」
 葉山は軽くスカートの裾を払って立ち上がった。しかし、その女教師があゆみの顔を見て、ふいにばつの悪い表情になる。
「あっ、そうか。幽霊なんて、あんまり教師の言うことじゃないわよね」
「いえ……」
 あゆみは曖昧に口ごもった。少し迷ってから、彼女は上目遣いに葉山をうかがう。
「葉山先生は、うしろの少女がいたって思われてるんですね」
 いやいや、と葉山は慌てた様子で手を振った。
「ま、まあね。そんな、非科学的なこと」それから、女教師は挙げた手を下ろした。「……って、あなたに言っても仕方ないか。知ってるんだっけ?」
「先生が、うしろの少女を最初に見た人だって聞いています」
「ナイショにしててね。それに、今となってはホントかどうかわからないし。ワタシが見たのはまだ息のあった浅川さんだったかも知れないもの」
 考えて少し背筋が冷えた。まだ息のあった少女。血まみれになりながら、最後の息で助けを呼ぶ姿。どちらかと言えばそちらの方がぞっとする、とあゆみは思う。
 だが、女教師は自分の言葉が教え子を怖がらせたことには気づかなかったようだ。葉山は変わらない軽い調子で言葉を続けた。
「それでもいたわよ、うしろの少女は。今はもういないけど」
 葉山は小さく肩をすくめて、それから興味深げな視線をあゆみに寄越した。
「橘さんだってそう思ってるんじゃないの? そうじゃなかったら、こんなところ来ないでしょ」
 あゆみは少し迷ってから頷く。おそらく葉山の言うとおりだろう。あゆみは、すでにここに来ることを怖いとは思っていない。
 それにはきっと二つの意味があった。ひとつは、仮に血まみれの少女の幽霊が現れても、もう本当に怖いとは思わないからだ。ここであれほど恐ろしい光景を見たというのに、ふしぎなことに今のあゆみはそう思っていた。友人が遺したように、血まみれの少女を前にしても今はただ悲しい気がするだけに違いない。
 しかし、それ以上に葉山の言うとおりだろうと思われた。きっと、うしろの少女は、浅川しのぶの霊はもういない。
「さすがに浅川さんにとっては良かったのかしらね」
 ぽつりと呟かれた言葉にあゆみは我に返った。「はい?」
「あなたは思ったより浮かない顔をしてるけど」
 葉山はあゆみの問いには答えずに目線だけを教え子へと向けた。だが、あゆみの方は葉山の言う意味がわからず首をかしげてしまう。
「私ですか?」
「うん。思ったよりねー。あなたくらいは、なんかもうちょっと晴れ晴れとした顔をしてるかなって思ってたんだけど」
 葉山が何を持ってあゆみくらいは、と評したのかわからず、あゆみはいよいよ持って困惑した。
 女教師は目線をあゆみから外して、窓のほうへと顔を向ける。西日が案外色白の女教師の顔を赤く照らした。
「橘さん」
「はい」
「あなた、今、幸せ?」
「……はい?」
 いきなり思わぬ問いを投げかけられ、あゆみは間の抜けた声を出した。幸せ?という葉山の問いかけが彼女の頭の中で巡る。巡るだけで、この唐突な質問の意図するところは全く理解できなかった。
「あの、おっしゃる意味が、よく……」
「今、アルバイトしてるんでしょ」葉山は教え子の当惑を気にしない様子で続けた。「高田くんって言ったわね。あの探偵くんと同じ探偵事務所に行ってるって」
「ああ……はい、そうです」
「探偵事務所でアルバイトって想像がつかないけど……」
「あぶないことはしていません」先回りしてあゆみは言った。「させてもらえないので」
「残念そうな口ぶりね」葉山は笑った。「ま、教師としては、その方針には賛成だわねー。そうじゃなかったら探偵事務所でのアルバイト自体、禁止にしないといけなくなるわ」
 それきり葉山は口を閉ざした。あゆみもまた黙って、女教師の言葉を待つ。
 辺りは静かで、微妙な空気だけが漂っていた。卒業式も過ぎ、在校生は学年末の試験も終わった直後で高校の敷地に人は少ない。事件の直後は怖い物見たさでここに忍び込む生徒もあったと聞くが、元より人の少なかった旧校舎にはすでに寄りつく人間もいなかった。担任でもない、授業を受けたこともない、しかし事件を通して妙な縁のできた女教師。ここで葉山と二人きりというのは、あゆみとって必ずしも居心地のいい状況とは言えない。
 私、そろそろ帰ります、とあゆみが言おうと思い始めた頃、女教師は無人のグラウンドを見つめたまま、ようやく口を開いた。
「橘さん、あなた、あの事件が解決して幸せ?」
「え?」
 あゆみが驚いて声を上げると、葉山は、この女教師にしては珍しく遠い目をして言った。
「さっきも言ったけど。ワタシ、あなたくらいは事件が解決して晴れ晴れとした顔をしてるかなって思ってたのよ。でも、あんまりそうじゃないみたいだから」
「そう……」いう意味か、という台詞は教師相手には失礼になる気がして言えず、あゆみはごまかした。「……そうですか?」
「うん。まあ、ワタシが思ってたよりね」
 あゆみはなんと言っていいかわからず口を閉ざした。
 『あの事件が解決して、自分は幸せになれたか』──?
 そんなこと、考えたこともない。
 
 

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